無形が創造する有形世界
ちょっと難しいタイトルになってしまいましたが、今回は無形と有形について考えてみようと思います。
有形とはなにか?
私たちは有形の世界に住んでいます。
有形とは姿形があり、色があり、香りもあり、見たり、聞いたり、触れることができます。
有形には限りがあります。
動植物は永遠に存在し続けることはできません。必ず存在が朽ち果て土に返る時が訪れます。
食品にも賞味期限があります。限界を超えると腐って食べられません。
高価な住宅や車、家電製品なども、やがて劣化し、故障し、朽ち果てます。
人間にも必ず死が訪れます。
有形は限界だらけです。
しかし、その一方で有形は誕生し続けます。
動植物は絶えず誕生し続けます。
食品、製品も絶えず誕生し続けます。
人間も有史以来、誕生しなかったことはありません。
これら有形の存在は何処から誕生するのでしょうか?
勿論、動物は親の体内から誕生し、植物は種から誕生します。
食品、製品は加工材料やアイデアから誕生します。
では動物の親はどこから誕生したのでしょうか?植物の種は?加工材料やアイデアは?精子や卵子は?一体何処から誕生したのでしょうか?
有形の誕生を紐解いていくと、宇宙誕生の歴史まで遡ります。
高名な学者は宇宙はビックバンが元で誕生した・・・と説明しますが、ビックバンが物理現象である以上、ビックバン以前にも物理があると考えるのが当然です。
例えば「、人間を創造したのは神である」と言われたら、「ならば神を創造したのは誰だ?」と疑問が湧いくるのです。神様を有形として考えている限り、この疑問が解決することはありません。
有形が誕生する元を有形と考えている限り、タマネギの皮のように剥いても剥いても皮が現われてくるのです。
それでは有形は何処から誕生するのでしょうか?
先ほどタマネギの皮を例に挙げましたが、タマネギの皮を最後まで剥いたらどうなります?当然、何も無くなりますよね?無になってしまいます。
これを逆に再生すると、無から最初のタマネギの皮一枚が現われます。
実はこれが有形が誕生する瞬間なのです。
それは、0(無形)から1(有形)が誕生する不思議な瞬間・・・。
有形が誕生する大元は無形にあるのです。
それでは無形とは一体なんなのでしょうか?
無形の正体
無形の正体、それは人間創造の神様です。
神様と聞くと、どうしても姿ある神様を想像してしまいます。
「白い髭を蓄え、杖も持ち、後光が差している。」
神様を形でイメージすると、途端に胡散臭くなります。
神様が形なら、その形ある神様を創造したのは、誰なの?またタマネギの皮論争に逆戻りです。
そもそも私たちが抱く神様のイメージは余りにも貧困で汚れすぎています。
「神様ってナニ?」と100人に質問したら、それぞれ多種多様な考え・イメージで答えると思います。
- 「神様は白い髭と杖を持ったおじいさん」
- 「100万円の壺を買えば神の御加護があります」
- 「神の名の下に宗教戦争」
- 「このパンケーキ美味い!マジ神!!」
もう何が何だか解りません。
神様って良い存在?悪い存在?
年も取り、お金が大好きで、争いを好み、パンケーキに宿る?
それじゃ人間と大差ありません。
その上、運命を操り天罰まで下するなら恐怖の対象でしかありません。私たちは常に神様のご機嫌を伺いながら、ビクビクと震えて暮らすしかないのでしょうか?。
もし神様が存在するなら、正しく公平で、人間を難儀苦悩から遠ざけ、喜びを与え続ける存在であって欲しいものです。
病気より健康、貧困より富裕、不作より豊作、戦争より平和、死より生・・・人間が望むもの全てを公平に与えてくれる存在でなければ、わたしは神様と認めたくありません。こんな素晴らし存在なら、誰でも神様、神様と恋慕う筈です。
だって、人間の力で実現不可能な願いを叶える存在なら、それは神様と呼ぶに相応しいと思います。
そんな理想的な世界に成っていない現実こそ、理想的な神様が存在しない確かな証拠・・・と思われても仕方がありませんが、それは単に、これまで抱いてきた神概念が真実と乖離していたに過ぎないのです。
神様は無形
神様は無形なのです。
無形とは姿価値が無く、物質、時間、空間に縛られない完全に自由な存在。
「観測可能な宇宙の半径は137億光年~」と推察されていますが、それほど巨大な宇宙をも包含し、どの時間帯、どの空間にも存在する不思議な存在なのです。
そう無形は不思議なのです。
人間には到底思議不可能な存在なのです。例え説明されても理解不能な不思議の領域なのです。
でも、わたしたち人間が接する不思議は脅威でも恐怖の対象でも無いのです。
何故なら、不思議は全て人間の喜びのために存在するからです。
そう、不思議な存在である神様は、常に人間の喜びを考え、全知全能の力を人間の喜びのためだけにお使いくださるのです。
これ以上、無形の意味は必要ありませんよね?
またコンピューターで例えますが、計算したり、文章を書いたり、絵を描き写真を加工したり、ゲームをしたり・・・様々な喜びをコンピューターから体験できますが、コンピューターの構造や仕組みを知っている人はどれ位いるでしょうか?殆どの人がコンピューターを意識しないで様々な喜びを享受しているのです。でもコンピューターの有り難みは感じられます。
神様も同じです。
無形の神秘が解明されなくても、神様の守護に喜びを感じられれば、それ以上の意味は必要ないのです。
でも、ここで一つ問題が発生します。
神様の守護を感じると言うことは、無形を感じると言うことです。
要するに、無形の神様が有形を創造し守護している実感がなければ、神様の守護と認識して喜ぶことはできません。
口先では、いくらでも「神様の守護を喜んでいる。」と言えますが、実際に神様の守護を感じるには無形を感じる能力が必要になるのです。
先ほども説明したように、無形は姿形が無く、見ることも、触れることもできません。
それでは無形を感じるには、如何なる能力が必要になるのでしょうか?
無形を感じる能力。
それこそ魂の能力なのです。
魂はそもそも無形です。
そして三つの理とは、無形と無形がつながり有形を形成しているのです。
無形を感じ、神様の守護を感じる方法
無形の心を無形の神様が受け取り有形の守護となる。
人間の日常的な行為全てがこの原理に当てはまるのです。
- コップに水を汲んで飲む。
- 歯を磨く。
- 服を着替える。
- 掃除洗濯をする。
- ゲーム、勉強をする。
この日々の当たり前に出来ている行動の中で、無形を感じる魂の力を鍛え、神様の守護を感じる練習を繰り返えましょう。
物事に接する時、何か行動に移す時、常に三つの理を意識しながら心を使いましょう。
日々、三つの理を通して自分を見つめ、世界を眺めることで、少しずつ魂の感受性が開眼します。
しかしながら、日々の当たり前に出来ている行動から、無形を感じ神様の守護を感じるのは中々難しいものです。今までも習慣的に出来ていたことなので、中々不思議を感じずらいのです。
そこで一番の方法は、今までなら喜べない困難の最中(病気や様々なトラブルなど)に、三つの理を信じて喜びを運び、その心通りの喜びの守護をいただくことです。
例えば頭痛や歯痛、発熱が治まる、様々なトラブルが難なく解決する・・・など、普通では有り得ない不思議が現われたら、”無形”が創造する”有形世界”をハッキリと目の当たりにできるのです。
まとめ
人間の世界は、無形の心を神様が受け取り有形を守護する不思議な世界。
無形と無形がつながり有形を形成する不思議は自分の魂の力で感じられる。
その魂の力、無形を感じる魂の感受性は、三つの理を心の理として日々有形無形と向き合う生活の中で身に付くのです。