人間心と魂人間
魂人間に人間心はありません。
魂人間にあるのは三つの理を定めた神の思想です。
もし何か問題に遭遇して、心配したり、不足心したりと、心がざわつくなら、それは人間心です。
人間心とは魂と真逆の概念。
人間心の思考方法
人間心とは、神を知らず、神の思想を知らず、三つの理を知らず、人間が形を動かせると信じ、結果を見るまで善悪の判断ができない一寸先は暗闇手探りの思考方法。一言で表わすと「喜べない思考方法」です。
神様を知らないと言うことは致命的です。神様を知らなければ、自分の身は自分で守るしかありません。勿論、神様を知っても知らなくても同様に守護はいただけますが、神様を知らなければ守護の意味も解らず、物事を自分の経験と知識で判断する他ありません。
人間心にとって、有形を守ることが自分を守ることなのです。
そのため財産を蓄え我が身を守ることに一生懸命になるのです。潤沢な財産があれば、もし病気に掛かっても高度な医療も受けられます。衣食住も最高レベルを確保することができます。子供にも最高の教育を与え、様々な将来の不安に備えることが可能です。
しかし有形は常に変転し固定されることはありません。人間の心通りに自由自在に姿形を変えるのです。
- 一流企業に就職してたら会社が問題を起こし倒産した。
- 財産があっても不治の病で寝たきりになり何の楽しみもない。
- 子供を有名大学に進学させたが天狗になり不祥事で人生を棒にする。
人生とは人間の計画通り、思い通りには成らないもの。人生が思い通りに成らないということは、有形が思い通りに成らないということなのです。
そして、この有形が思い通りに成ると信じているのが人間心なのです。
有形が思い通りに成ると信じている人間心
人生が人間の思い通りに成らないのは、なにも不幸な面ばかりではありません。
- 三流企業に就職したが思わぬ発明で世界有数の企業に成長する。
- 財産がなくても家族が健康で優しく常に笑いが絶えない。
- 子供は勉強をせず自分の道を進み大きな夢を叶えた。
これらは思わぬ喜び。これは「棚からぼた餅」という訳では有りません。人生が思い通りに成らないのは当然なのです。何故なら、思い通りではなく、心通りに成るのが人生なのです。
しかし一つだけ、思い通りに成ることがあります。
人間の心の中。心の中は自由自在、思い通りに思いを描くことができます。その思い通りの有形が実現するには、その思いに相応しい心の理(実際に使う心)が必要になるのです。つまり心通りの守護を頂いた時に、「思い」と「心の理」が等しければ「思い通り」と感じることができるのです。
日々の生活の中で思い通りと感じられることは多々あります。
- 歯を磨きうがいをする。
- 水を飲みご飯を食べる。
- 服に着替え学校や会社に出掛ける。
- 読書や音楽鑑賞に興じる。
- 布団に入り休む。
これら日常の行動は「思い」と「心の理」が等しいから「思い通り」に感じられるのです。この「思い」を叶えるのに特別な「心の理」は必要ないからです。
しかし大きな夢、実現困難な目標の場合はどうでしょうか?
大きな夢、実現困難な目標を思い描くのは自由です。しかし、その思いが思い通りに成るためには、やはり「思い」に等しい「心の理」が必要になります。
「億万長者」を思い描きながら「日々怠惰な生活」を送る・・・極端な例ですが、このように「思い」と「心の理」が乖離すれば、思い通りとは成らず、心通りの人生を歩むことになるのです。
これまで三つの理を知らずに生活してきた私たち。
三つの理を知らない私たちの意識の中に、有形が思い通りに成ると信じる人間心が根深く残っているのです。
三つの理は人間心を取り払い魂を取り戻す
もし何か問題に遭遇して、心配したり、不足心したりと、心がざわつくなら、それは人間心で対処しているのです。
そんな時は、直ぐに三つの理に立ち返れば、人間心は取り払われ魂を取り戻すことができるのです。
三つの理が心に治まると同時に人間心は静まり、魂人間として問題に対処して喜びの方角へ軌道を修正することができるのです。
今、見る問題が、過去に運んだ心通りの守護の結果なら・・・と、魂人間として心通りに守護を喜ぶことで、今、この瞬間に運ぶ心から未来の運命を変えることができるのです。
まとめ
もし何か問題に遭遇して、心配したり、不足心したりと、心がざわつくなら、それは人間心。
その時、人間心を認識できれば問題は解決したも同然。
三つの理で、心配したり不足する人間心を安心し満足する喜びの心へと立て替えれば、どんな問題も速やかに治まるのです。
喜びの有形を実らせるのは喜びの種。
心に喜びの種を持つのが魂人間なのです。