人間は運命の創造者、人間の心一つが運命を左右する。心自由の理
人間の心は完全に自由。これは魂に備わった性質なのです。
人間の心は完全に自由
心の自由は神様にさえ邪魔することはできません。心の中は完全に自由でです。王様やスターにも成れるし、過去を懐かしみ未来を夢想し、遠い土地を旅することもできる。心の中では不可能やタブーは無い。銀行強盗や殺人を犯しても警察は捕まえに来ない。心の中は完全に自由。心自由は神様によって完全に守られているのです。
しかし心は使わなければ形になりません。いくら心の中で王様に成ってもご馳走は食べられないし、海外旅行へ出掛けてもお土産一つ買えません。心の中で思っているだけでは永遠に形にはなりません。心は使ってこそ神様にお受け取りいただく理の種となるのです。理とは心通りの守護。心を使うから心通りに形を御守護いただき心通りの喜びを味わうことができるのです。
心中で思っているだけと言っても、思っているだけでも形になる場合もあります。
無自覚に創造される運命
例えば憎い相手がいたとします。その憎い相手を憎しみの余り心の中で殺害したとします。勿論、実際には殺害していないので問題にはなりませんが、心の中で殺害したとしても顔の表情や血圧に変化はないでしょうか?おそらく本人が気が付いていないだけで、恐ろしい表情をしているに違いありません。血圧も上昇していることでしょう。体に反応が現われたということは、心模様が形に成って現われたということ。つまり心通りの守護です。実際に殺害はしていないので逮捕はされませんが、憎しみの心はしっかりと受け取られているのです。その心が生み出す「喜べない種」は必ず「喜べない実り」となって自分の前に現われます。このように、自覚的でも無自覚でも、人間は知らず知らずに運命を創造しているのです。
そして大抵の場合、人間は無自覚に心を使っています。習慣的に身に付いた心のまま、運命を創造しているのです。これは大変恐ろしいことです。怒りっぽい性質の心なら、常に他人に嫌な思いをさせる種を蒔いているのです。他人に嫌な思いをさせた分、今度は自分に嫌な思いが返ってくる負の連鎖。
でも心配する必要はありません。
もし怒りっぽい性質の心なら、今、この瞬間から怒りを鎮め、思いやりのある優しい心に生まれ変えれば問題は解決するのです。たったそれだけで運命ががらりと変わるのです。
しかし実際は「習慣的に身に付いた心」を変えることは大変難しいのです。もう心の癖になっているので、つい反射的に癖の心を使ってしまうのです。癖の心に打ち勝つには一体どうしたらいいのでしょうか?
癖の心に打ち勝つ三つの理
普段から無自覚に使い続けて身に付いた癖の心。
この癖の心に打ち勝つには自覚的に喜びの心を使い続けるしかありません。ただ水を飲む行為一つでも自覚的に喜びの心を使う癖を付けるのです。
それは三つの理を通して、水を飲む行為を魂の視点から俯瞰するのです。三つの理が働かなければ「水を飲む」ことはできません。
- 有形は借りもの(体、水、コップ)
- 心通りの守護(体が動き水が飲める)
- 人間の心は自由(水を飲みたい)
三つの理で水を飲む行為が完結しますが、忘れてはならないのは神様の心です。
「人間の喜びを見て共に楽しみたい」。神様の心が根底にあってこそ働く三つの理なのです。神様の守護あってこそ水が飲めるのです。
つまり心通りに水が飲めたら、心通りの守護を神様に感謝して、神様が定めた三つの理に守られている喜びを感じてください。
日々、当たり前にできていると思っていた行為に対して、一つ一つ自覚的に喜びの心を使うことで、いつの間にか「喜べない癖」は消えてしまいます。
自覚的に喜びの心を使うことで癖に打ち勝つだけではなく、同時に喜びの運命も自覚的に創造していることになるのです。一石二鳥とは正にこのこと。
喜びの心が運命を切り開く
あなたは怒りっぽい性質ですか?根に持つ性質ですか?見栄っ張りな性質ですか?自分のことを第一に考える性質ですか?
どんな心の性質だったとしても、肝心なのは「心に喜びがあるか?ないか?」。たったそれだけが運命を分けるのです。
喜びの未来を望むなら喜びの心、喜べない未来を望むなら喜べない心(そんな人が居るとは思いませんが)を日々の心使いにすれば、その心通りの未来を御守護いただけるのです。
サッカー選手になりたい、医師になりたい、看護師になりたい、ユーチューバーになりたい・・・などの個別の目標は、それぞれの道を極めて行くしかありません。サッカーにはサッカーの道理があり、医師には医師の道理があるのです。しかし道を追い求めて行く過程で生み出す心が「喜び」でなければ、運命の天秤を「喜び」に傾かせることは難しいと言わざるを得ません。
一つの道を真剣に追い求めて行けば必ず壁にぶち当たります。これ以上先へ進むことが難しい壁。この壁を困難と見るか?守護と見るか?この二択で運命は天地ほども差が生じます。
壁を困難と見れば壁を越えるまで喜びはありません。しかし壁を守護と見れば既に喜びを感じているのです。既に喜びの種を蒔いているのだから、喜びの実り(新しい発想)もいただけるのです。
壁に恐れ戦き喜べない種を蒔き続ければ、やがて壁自体に心を押し潰されてしまいます。
そもそも、自分の行く手を邪魔する壁は、一体何処から現われるのでしょうか?神様はそんなに人間の思いを邪魔したいのでしょうか?勿論、神様が人間の邪魔をする気は毛頭ありません。神様は「人間の喜びを見て共に楽しみたい」一筋の心です。
壁は心通りの守護。
壁に行く手を阻まれるということは、この先を進む理が無いということ。
例えば、100メートル世界記録9.58秒を超えられない壁が有るとするなら、9.57秒に突入する理が無いのです。
理が無ければ理を造るしかありません。
理とは喜びの心。これ以上進めない壁を前に、如何にして喜びの心を造ればいいのでしょうか?
一口に喜びと言っても様々な喜び方があります。お酒を飲む喜びもあれば、ゲームをする喜びもあります。例え喜びだからと言って、お酒やゲームで世界新記録が出せるはずもありません。
「壁を打ち破れるほどの喜び」とは一体どんな喜びなのでしょうか?
「壁を打ち破れるほどの喜び」。それは「心通りの守護を感じる喜び」です。心通りの守護を感じることが人間にとって最上級の喜びなのです。
今有る形に心通りの守護を感じる・・・つまり、壁を破り新記録を出せたら神様の守護・・・ではなく、壁自体も神様の守護なのです。
全ての有形をお借りし、心通りの守護をいただいた現状こそが、最上級の喜びなのです。
それ以上を求めることは欲でしかないのです。欲の心には理がありません。壁を乗り越え先へ進む理が無いのです。
今の現状、心通りの守護をいただいている現状を満足して喜ぶことで理が造られる。
心通りの守護を喜ぶ心は、自覚的に喜びの運命を創造しているのです。
まとめ
自覚的でも無自覚でも、心一つで運命が創造されるなら、自覚的に喜びの運命を創造したいものです。
人間は運命の創造者。人間の心一つで運命は変わるのです。