「心通りの守護」と「守護通りの心」
この人間世界は心通りの守護で成り立っています。
心通りの守護が無ければ、人間がどんなに心を使っても形は1ミリも動きません。心臓も動かないし見ることも聞くことも話すこともできません。
心通りの守護のお陰で、心が成就する喜びを味わうことができるのです。
- 水の飲みたい(思い)
- 水を飲む(心)
- 飲めた(心通りの守護)
- 嬉しい!(心の成就)
一方「守護通りの心」とは「心通りの守護」を知らない人間が使う心を指します。
それは形を見て思考する従来通りの思考方法です。
形を見て心を決めるので、形通りの心が形成されてしまうのです。
- 思い通りの形を見て喜ぶ心。
- 思いと違う形を見て喜べない心。
目の前の形に左右される心に自由意志はありません。形の指図通りに運命に翻弄され続ける主体無き心なのです。
しかし形とは「心通りの守護」です。運命に翻弄されるということは、過去の自分(心)に翻弄されているのです。
例えば、身に覚えのないことで他人から罵られたとします。「守護通りの心」なら反射的に怒り心頭に発して罵り返すのが関の山ですが、形に現われたら心通りの守護なのです。過去に自分も同じように他人を罵っていたのかもしれません。全く身に覚えが無くても理は絶対、理に間違いはないのです。
魂人間は、身に覚えが有っても無くても、思考の土台にしているのは心通りの守護であり、罵られた形(実り)を心通りの守護と喜んで収穫し、新たな運命に喜びの種を蒔くことで次も収穫時も豊かな実りを確約できるのです。
これは形の如何に捕らわれず、常に主体的な喜びを生み出す魂の思考方法なのです。魂人間は常に心通りの守護を喜びながら、喜びの未来を創造することができるのです。