寿限無の日記

魂人間の寿限無が綴る魂のブログ

信仰で病気は治るのか?:病気の発生源(2)

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病気の発生源

病気はどこから発生するのでしょうか? 

「神の思想」は形に現われたもの全を「心通りの守護」と定義しています。形に現われたもの。病気も形の一つなら、病気も心通りに守護いただいた結果と言えます。

つまり病気も神様の守護なのです。

心通りの守護なら原因は人間自身の心にありますが、一体どんな心を使ったら病気になるのでしょう?

病気には様々な種類があります。軽い風邪から、癌、皮膚病、内臓疾患、神経疾患、精神疾患に至るまで多種多様です。病気が多種多様あるように、病気の元になる心使いも多種多様に分類されるのでしょうか?

 

  • 風邪には風邪の心使い
  • 癌には癌の心使い
  • 皮膚病には皮膚病の心使い
  • 内臓疾患には内臓疾患の心使い
  • 神経疾患には神経疾患の心使い
  • 精神疾患には精神疾患の心使い

 

このように細かく分類されるのでしょうか?

神の思想から導き出される答えは非常にシンプルです。

病気は「喜べない心」が原因なのです。喜べない心が様々な病気を引き起こしているのです。人それぞれに様々な「喜べない理由」があると思いますが、その心を突き詰めると「自分の思い通りにならない形」に集約されます。

あれ?ちょっと待ってください。「自分の思い通りにならない形」の中に「病気」も入っていませんか?

「病気」の原因が「喜べない心」なのに、「喜べない心」の原因が「病気」だとしたら無限ループです。鶏が先か?卵が先か?

その問いは取りあえず置いておいて、「喜びの心」を使い続けれることが「病気」を防ぐ最高の予防策と言えます。しかし、ここで一つ問題が発生します。

「→ 病気 → 喜べない心 → 病気 → 喜べない心 →・・・」

 

この無限ループを絶ち切るには、どこかで喜びの心を入れ込む必要があります。

「→ 病気 → 喜べない心 → 病気 → 喜びの心 → 健康 → 喜びの心 → 健康 →・・・」

 

果して病気の最中に喜こぶことが可能でしょうか?

 

喜びの心が病気を防ぐ

病気になって喜ぶ人はいません。

病気になって家族から優しくされる姉を見て、妹が「わたしも病気になりたい!」と思ったとしても、実際に病気になったら一刻も早く病気が治って欲しい、一日も早く元気になりたいと願うはずです。それほど病気は辛く恐ろしいもの。

人類の歴史に「病気になって喜ぶ発想」はありません。

しかし三つの理に従えば、病気を喜ぶことで病気を防ぐことができるのです。

病気は形です。

形は思い通りには成りませんが、心通りに守護いただけるのです。

病気を喜ぶこと。

これは人類史にとって非常に重要かつ価値のある試みと言えます。

病気の根本原因である「喜べない心」を根絶やしにすれば、この世から全ての病気が根絶されるのです。

   

喜びの心は一朝一夕には造られない

 ほとんどの病気が長い期間をかけて発症に至る「生活習慣病」と言われています。

その人の心模様が生活習慣に反映されているのです。つまり習慣的に喜べない心が癖として根付いた結果と言えます。

形として現われた病気は一朝一夕で発症したわけではないのです。

「喜べない心」と「病気」の因果関係も一朝一夕に結ばれるわけではありません。「あの時に喜べなかったから病気になった」というような単純な関係ではありません。

日々「喜べない心」の蓄積が病気という形で現われるのです。 

また、 風邪には風邪の喜べない心、癌には癌の喜べない心・・・。このように個別の分類もありません。そもそも神の思想に病気という概念はないのです。

体の不調や異変に、癌、糖尿病、精神病・・・等、カテゴリを分けて名前を付けたのは人間です。誤解を恐れずに言ってしまえば、病院に行くから、癌、糖尿病、精神病・・・等、病気になるのです。病院に行かなければ、ただの「心通りの守護」です。

心通りの守護を思考の土台に据えれば、癌、糖尿病、精神病・・・等、様々な形があったとしても、対応するのは自分の心ただ一つなのです。

形を動かそうと思えば困難に直面します。病気を治したい、癌を取り除きたい、とても困難ですよね。困難だからこそ悩み苦しむのです。困難なことに心を使えば悩み苦しむのは当然です。

形を動かそうと思わず、理を動かすのです。心通りの守護に合わせて自分自身の心を喜びに変えることで、理を動かすのです。

病気だから喜べない?いえ、心は完全に自由です。心を変えることは誰でも簡単にできるのです・・・と言いたいところですが、現実には心を変えることは大変な努力が必要です。病気が長い期間かけて症状に現われると同時に、心も長い期間かけて癖として根付いてしまいます。

実際、わたしも始めの頃は、病気の時に喜ぶことはできませんでした。喜ぼう喜ぼうとしても痛みや苦しみに負けてしまい、三つの理を思考するどころか、思考自体ままならぬ状態でした。わたしの場合は主に頭痛、腹痛、歯痛などの症状でしたが、激しい痛みの中で喜ぶことは不可能に思えました。

しかし今振り返れば、喜べないのは当然です。ペーパードライバーがいきなりF1に乗るようなもので、まともに運転できるはずがありません。

病気を喜ぶ。激しい痛みの中で心通りの守護を喜ぶ。これは超難関です。毎日の鍛錬があってこそ到達できる達人の境地です。

 

喜びの心を鍛錬する方法

 鍛錬、達人と聞くと、なにか厳しい修行を連想するかもしれませんが、喜びの心を鍛えるために特別な修行は必要ありません。

喜べないことを無理に喜ぼうとするのではなく、喜べることを喜ぶのです。

病気は喜べなくても、健康は喜べますよね。

健康を喜ぶことは誰でも簡単にできます。こんなことで本当に喜びの心が鍛えられるのか?と疑問に思うかもしれません。でも一日を振り返って少し考えてみてください。一日の内でどれだけ健康を喜びましたか?この一ヶ月の間でもいいです。何回健康を喜びましたか?一年では?

おそらく一年単位で振り返っても、健康を喜ぶことは数回あるか?ないか?ではないでしょうか?

健康を喜ぶことは簡単ですが、健康に喜びを感じることは案外難しいのです。なぜなら多くの人にとって健康は当たり前なのです。当たり前のことは喜びの対象にはならないのです。

そこで意識改革が必要になります。

当たり前のことを、当たり前じゃ無い、特別なものに感じるための意識改革。三つの理を用いて魂の感受性を目覚めさせるのです。

 

  1. 有形は借りもの
  2. 心通りの守護
  3. 人間の心は自由

 

三つの理を思考し理解した時、魂の感受性は目覚め、無形に喜びを感じ始めるのです。

 

  • 健康の中にある無形。
  • 健康の中にある当たり前じゃない人体の神秘。
  • 健康の中にある有り難い神様の守護。

 

何かをする時、何か行動に移す時、必ず三つの理を思考して喜ぶことで、無形に通じる魂の感受性を鍛錬するのです。

小さいことでも、喜べるところから鍛錬すれば、いざ病気という時に必ず大きな力を発揮し、不可能を可能にしてくれるでしょう。

コツコツと毎日続ける鍛錬が、いつの間にか病気すら喜べる魂人間を育て上げるのです。

  

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