信仰で病気は治るのか?:拝み祈祷で病気が治らない理由(5)
拝み祈祷で病気が治らない理由
神様に「病気を治してください。」とお願いしても簡単に病気は治してくれません。
全知全能の神様にも無理なことがあるのです。
人間の心を曲げること。
人間の心は神様にも曲げることはできません。
お願いする人間の心に「喜び」が無ければ、その願いを受け取ることができません。
「病気を治してください。」と病助けを願う心に「喜びの心」が無いのは明白です。
しかし天理教の有名は逸話では、願うことで病気が治る例が残されています。
「病に苦しむ母を救いたくて当時15歳の桝井伊三郎は教祖にお願いにあがるが、”母は助からない”と言われ泣く泣く家に戻る。だが苦しむ母を見て再度お願いにあがるが、やはり”無理な願いだ”と追い返される。それでも苦しむ母を見て絶えきれず夜遅くにお願いにあがると”たすからんものを、なんでもと言うて子が親のために運ぶ心。これが真実やがな。真実なら神が受け取る”。やがて母の病気は回復し桝井親子は熱心な信者になる。」
子が親のために運ぶ心。これは大抵の子が持つ心境ではないだろうか?否、親も子のためなら何度でも運ぶだろう。
現在でも病に苦しむ母のために神様にお願いする子は多いはず。ならば天理教に不思議奇跡が溢れて然るべきだが、もしかして願う以前に病院に駆け込んでしまうのだろうか?真相は定かでありませんが、桝井伊三郎には紛れもない真実があったはず。
2度も無理だと言われているのに願いにあがるのは、教祖を神様と信じているからだろう。その神様に対する絶対的な信頼は真実の喜びに繋がる。
病院の代わりではない。加持祈祷の代わりではない。教祖を真実の神と信じて願う心に真実が宿るのだ。
教祖の残した教典”みかぐらうた”に下記一節がある。
人の心というものは疑い深いものなるぞ
不思議な助けをするからに如何なることも見定める
先ず、不思議な助けが先にあるから疑いを払拭できる・・・と語られているが、桝井伊三郎は不思議な助けに与る前から、一切疑うことなく教祖を神と信じ切っていたのだ。だからこそ無理と言われても、神様なら無理も聞いてくださると最後まで希望を持っていたに違いない。
死の間際で苦しむ母を救いたい一心の中でも、決して消えない希望の灯火は、不安や恐れでは無く、紛れもなく喜びの灯火なのだ。
現在も桝井伊三郎と同じく素直な信仰者は多いはずだが、神様と信頼を寄せるべき教祖が存在しない。巨大な神殿でいくら願っても神様は答えてはくれない。
病気になると「何故?」と神意を知りたくなるが神様は決して答えない。
なぜって、答える必要がないからだ。
神の答え(神の思想)は「三つの理」で明確にされている。
何故?病気になるのか?と「三つの理」で思考すれば、心通りの守護と答えが導き出される。それが神の答えに相違ない。
心通りの守護なれば、喜びの心で実り(病気)を収穫できる。それ以上の答えは人間に必要ないのだ。
本当に桝井伊三郎のように真実の心があれば、素直に病気を喜べるだろう。
何故?自分が?納得できない!・・・などと微塵も思わず、素直に神様を信じ切り、理に頼り切ることができるだろう。
もう拝み祈祷で助ける時代ではないのだ。
神の思想、三つの理があれば、人間はいつでも真実の心が出せるのだから。