信仰で病気は治るのか?(7):痛みの最中でも喜べる理由
頭痛、歯痛、腹痛・・・怒濤のように押し寄せる激しい痛みの中、はたして「喜びの心」に成れるのでしょうか?
否、気合いや根性でも喜べるものではありません。
- 頭をハンマーでガンガン殴られるような頭痛。
- 歯茎をノコギリで刻まれて切るような歯痛。
- 内臓をミキサーでかき混ぜられているような腹痛。
人間は痛みに弱いものです。
これは体の構造上仕方が無いことなのです。体がダメージを受けると、脳に「痛い」と認識させる信号を送り、体がこれ以上ダメージを受けないように、脳が「避ける」行動を指示するためです。
脳が痛みを避けるように創造されているのです。
つまり「痛みを喜ぶ」とは体内の自然な働きに逆らって、心を生み出すことを意味します。しかも我慢ではなく喜びの心を生み出すのです。
はたして、そんな大それた挑戦が可能なのでしょうか?
わたしも初期の頃は全く喜べませんでした。「こんな痛みはマゾでも喜べない!」と心底思いました。
厄介なことに痛みは「負の感情」が伴います。
足の小指を机の角にぶつけたら「くそ!」と怒りの感情が伴い、長引く痛みには拒絶・不安・恐れの感情が伴います。この負の感情が厄介なのです。
負の感情が伴っている限り「痛み」を超えることはできません。まずは負の感情をなんとかして払い落とす必要があります。
負の感情を払い落とすのは、正の感情(喜びの心)の役目です。
「これで良かった、これで満足」という感情が喜びの心ですが、この喜びは「三つの理」を土台にした理性的な思考から生まれるのです。
足の小指を机の角にぶつけて「くそ!」と怒り心頭のあなた。末端に意識が行き届いてない不注意に気がつけて良かったと思わないですか?。もしこれが自動車の運転だったら不注意が事故を引き起こしたかもしれません。「ああ、この程度の痛みで不注意に気がつけて良かった。」と大難を小難に守護くだされた神様に感謝の気持ちが湧いてくるはずです。
長く続く痛みは精神的にも肉体的にも疲労が蓄積されます。一刻も早く病状から回復したいものです。
しかし、痛みに拒絶・不安・恐れの感情を抱いたままでは「喜べない心」から先へ進めません。
そこで一つイメージしてください。
あなたは今、地中深い洞窟の行き止まりにいます。目の前の分厚い岩盤をスコップで砕けば巨万の財宝を手に入るとしたら?勿論、あなたは命懸けで岩盤を破壊するはずです。何日間もただ只管スコップを振り下ろし、手は血豆だらけ、全身の筋肉は疲労と痛みで悲鳴を上げ、跳ね返る岩片で全身傷だらけ、食料も底をつき、乾いた喉を潤す水もない。正に生死の境での掘削作業だが、心は希望と喜びに満ち溢れている。
何故なら、どんなに痛く苦しく辛くても、その先には確かな喜びが待っているのだから・・・先にある巨万の財宝を手に入れられるのなら、どんな艱難辛苦も嬉々として耐え凌ぐことができる・・・。
これは「長引く痛みの先にある価値」を確信することで、例え艱難辛苦がの道程だとしても、喜び勇んで通り切ることができる一つの例です。
実際には巨万の財宝はありません。しかし「三つの理」を土台にした理性的な思考により、巨万の財宝以上の価値を見出すことが可能なのです。
体が病気で自分の思い通りにならない時は、「自分の思い通りなる」という思い違いを正す時なのです。体は「借りもの」。人間には創ることも動かすこともできない「神様のもの」です。
大抵の人は「自分の体」と思っています。自分の体と思っている限り「体があるのが当たり前」と信じて疑うことはありません。
しかし肝不全一つでも患えば、血液のろ過が充分に行えず、水分や老廃物のコントロールができなくなり、肝機能を補うために定期的な治療が必要になります。今までは何不自由なく当たり前に機能していたのに、機能不全になれば高額な医療費、治療にかかる時間等、様々な生活の面で不自由が発生してしまいます。
肝臓一つとって見ても、どれほどの価値を秘めているか解ると思います。
「痛み」により、「借りもの」を知るのです。
「痛み」により、借りているものの「価値」を知るのです。
「痛み」により、「無事無難の喜び」を知るのです。
「痛み」は実感です。
「痛み」は「借りもの」の実感です。
「借りもの」の実感は、借りているものの「価値」の実感です。
体は自分のもの?
「痛み」は、この「思い違い」を一掃してくれます。
「痛み」は心通りの守護。
「心通りの守護」は「罰」とは違います。
今以上の喜びを感じるために、現状一番必要な与えが「心通りの守護」なのです。
神様が「心通りの守護」を与える理由は「人間の喜びを見て共に楽しむ」ためですが、人間創造の終着点は「魂人間の誕生」です。
神様の守護を感じて喜びづくめの人生を謳歌する「魂人間の誕生」。
「痛み」の中には神様の深い思惑が隠されているのです。
最後にもう一つ。
心通りに「痛み」を守護いただいたなら、他人に痛みを与えたのかも知れません。人間は今世しか記憶にないので真相は分かりません。これは一つの悟り方です。
他人に痛みを与えるということは「他人の痛みが分からない」ということ。他人の痛みを分かち合う感受性が鈍いのです。
暴言等で直接他人を傷付けることもあるでしょうが、知らず知らずに他人を傷付けるてしまうこともあります。「今さえ楽しければ、自分さえ楽しければ」の心は、自分の喜びのためなら他人の不幸も厭わない酷い心なのです。それでは他人を傷付けているも同じです。
もしかしたら、自分勝手な喜びの影で「心痛め傷ついている人」がいたかもしれない。
否、絶対にいたはず。「三つの理」を知らなければ酷い心は避けられないのです。
自分も同じ痛みを味わうことで、他人の痛みを共有し、他人の喜びを思う優しい心になれるなら、こんな有り難いことはない。
「痛み」によって、自分に巣くう「酷い心」が洗い流されるなら、今よりもっとマシな人間、もっともっと優しい人間、もっともっともっと喜び多き人間になれるなら、こんな有り難い痛みはありませんよね。
みなさんも「三つの理」で思考して、これ以上に喜べる理由を見つけてください。