信仰で病気は治るのか?(9):病気が健康な心をつくる
病気が健康をつくる
健康とは病気を患っていない状態です。
病気を患っている状態は健康ではありません。
わたしたちは普通、「健康」と「病気」は別々のものとして分けて考えますが、「神の思想」では健康も病気も同じ「心通りの理」カテゴリーなのです。
「健康」も「病気」も同じ「心通りの守護」ですが、守護の感じ方に大きな違いがあります。
健康=(イコール)喜びの心
病気=(イコール)喜べない心
病気を喜べないのは仕方ないですよね。痛く苦しいのですから。
でも、「神の思想」って「人間の喜びを見て共に楽しむ」ことですよね?
人間の喜びが見たい神様の世界に、何故、人間を痛め苦しめる「病気」が存在するのでしょうか?
可笑しいですよね?
人間の喜びが見たいなら「健康」だけ守護すればいい・・・と思いませんか?
しかし、どうでしょう?
今現在、「健康」を守護いただいている人は「健康を喜んでいる」でしょうか?
殆どの人は「健康は当たり前」「健康が通常体」だと思い違いして、「健康」を喜ぶこともなく、神様の守護に感謝することもなく暮らしているのです。
だから病気を守護して、健康の有り難み、健康の喜びを感じさせるのでしょうか?
それも確かにあります・・・。
しかし、
健康を喜べない。
これは神様の守護を知らない、又は忘れているのが大前提です。
神様の守護を知らないと大変なことが起こります。
「病気」が外敵になってしまうのです。
外敵なら排除してしまえ!と考えてしまいます。
でも、待ってください。
「病気」は「心通りの守護」の結果です。「心通りの守護」と収穫(喜ぶ)すれば実り(病気)は消えるのです。決して外敵でも、得体の知れない恐怖でもありません。神様の思いが掛かった守護そのものです。
「心通りの理」に反して収穫(喜ぶ)しなければ、例え「病気」という形だけを取り除いたとしても一時凌ぎに過ぎず、病の根は残ったまま。いつ何時生えてくるか解りません。
つまり「神様の守護」を知らないということは、常に病気を患う不安や恐怖と隣り合わせの暮らしが続くのです。
心に不安や恐怖を抱えているということは、心が病んでいる状態と言えます。
心が病気なのです。
心が「喜べない病」を患っている。
不安や恐怖心が「喜べない種」を常に撒き散らし、結局、自分自身で病気の原因を拵えているのです。
要するに「病気」は自分の「喜べない心」を見ていると同じ。
「病気」は「心通りの理」の鏡に映し出された「喜べない心」の姿。
「病気」を見て喜べないということは、自分の心に「病気」を映し返しているに過ぎないのです。
「心」を鏡にする必要はありません。
人間の心は自由です。
「心自由の理」。
「心に喜び」を宿せば、「心通りの理」の鏡に映るのは「喜びの心」。
その結果、病気は治まり、健康の守護をいただき、健康を喜べる・・・ということは?
病気が健康な心をつくる
のです。
「健康な心」さえあれば、いつでも「喜びの種」を蒔き、喜びの実り(健康)を収穫(喜ぶ)ことができるのです。
病気は神様の守護を喜ぶ「魂の感受性」を磨いていたのです。
病気は痛く苦しいですが、人間の一生を考えたら健康な日々が殆どで、病気を患う時間はほんの少し。痛め苦しめるのが神様の目的ではありません。魂の親として人間の痛み苦しみは神様自身が一番見たくないのです。
見たくはないが、だからと言って理を曲げてしまえば、喜びの方程式は瓦解し、人間創造は頓挫してしまいます。
神の思想を信じ、三つの理を思考し、魂で喜びの答えを出してください。