寿限無の日記

魂人間の寿限無が綴る魂のブログ

信仰で病気は治るのか?:病気を喜ぶ二つのジレンマ(4)

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病気を喜ぶ二つのジレンマ

病気も心通りの守護なのだから、病気を喜べば病気は治るんだ!

三つの理を思考して「喜ぼう」と思っても、いざ病気になると喜ぶことの難しさを痛感します。

「病気を喜ぶ」。この心境を少し考えてみましょう。

例えば「贈り物を喜ぶ」と言えば、贈り物自体に価値があるので自然に喜びが溢れてきます。「ご馳走を喜ぶ」「新車を喜ぶ」「マイホームを喜ぶ」・・・どれも自然に喜べますよね。喜べるということは、そのもの自体に満足しているからです。これで結構と喜べるのです。

しかし病気はどうでしょうか?

表面的に見たら喜べる要素はありません。痛いし苦しいし思い通りに動けないし・・・。

病気自体に満足して、これで結構と喜べますか?

 

ジレンマ1:治りたい欲

そしてここからが一つ目のジレンマなのですが、なぜ「病気を喜ぶ」かと言えば「病気が治りたい」ためです。「病気が治りたい」から「病気を喜ぶ必要がある」わけで、決して病気自体を満足しているわけではないのです。

病気という心通りの守護をいただいているのに、目の前の与えに満足せず、新たな欲求を生み出している・・・これが神の視点から見た心の実情です。

これは紛れもなく欲の心。心通りの守護に満足せずに、もっともっとと欲を出している姿。欲の心は「喜べない心」の大本命なのです。

喜べない心を使ったところで、喜べない実りの種にしかなりません。

先ず、目の前の実り、病気という心通りの守護を収穫しなければ、喜べない形のまま先へ進むことはできません。

実りを喜ばなければ収穫はできない・・・要するに理は動かないのです。

 

ジレンマ2:納得できない因果関係

二つ目のジレンマは「病気」を心通りの守護と納得できないのです。

喜べない心を使った瞬間に病気になれば、「あっ、心通りの守護をいただいた!」と納得しやすいはずです。

しかし「過去の心」と「病気」の因果関係がハッキリしないので、なかなか納得しずらいのです。

なぜ、過去の因果関係が分かり難いかというと、守護の法則に原因があったのです。

心通りの守護の原則は、人間の心を受け取り有形として守護することですが、「喜びの心」と「喜べない心」では、「喜べない心」より「喜びの心」の方が優先的に守護される仕組みなのです。

神様は、人間の苦しみは見たくないので、「喜べない心」は後回しで「喜びの心」を真っ先に守護すると定めたのです。

即ち、病気の守護をいただくということは、相当に喜びの心が薄くなり、喜べない心の生活が続いていたということです。本人は喜んでいたと主張するかもしれませんが、例え喜びと言っても、他人の喜びを顧みない「自分本位の喜び」は「喜べない心」に属する酷い心なのです。

喜びの心だったか?喜べない心だったか?自分であれこれ判断するより、現われた結果を答えとして受入れるのが正しい心の姿勢なのです。

そして「過去の心」と「病気」の因果関係が分かり難い原因はもう一つあるのです。

それは「過去を知る必要はない」ということなのです。

もし人間に前世の姿が見えたとして、もしも凶悪殺人鬼だとしたら?何十人も惨殺していたとしたら?あなたは冷静でいられますか?過去を知った後も喜んで暮らせますか?

おそらく深い後悔の余り、自殺したい衝動に駆られるのではないでしょうか?

一旦体を神様にお返しし、今世を終え、記憶をリセットすることで、無垢な魂として生まれ変わり新たな人生を踏み出せるのです。

勿論、記憶がリセットされても、使った心の理は魂に記録されているので、どのような形で来世に現われるかは解りません。

しかし、三つの理を信じて本当の喜び、魂の喜び、守護の喜びに目覚めるなら、どんな「喜べない心の種」も封じ込み、例えどんな形が現われたとしても心通りの守護と喜んで収穫すれば、新たな喜びの種を蒔き運命を変えることができるのです。

 

喜びは今この瞬間にある

 病気が治ったら喜ぶ。

これは未来に希求する喜びの姿であって今の喜びではありません。例え病気が治った未来を夢想したところで現実の喜びではありません。

現実は病気の真っ只中なら、実際に感じているのは「喜べない心」なのです。

喜びとは今の形(現実)の中にしか存在しないのです。

ゆえに今、喜びの心を造れなければ未来の形(現実)は、その心以上に変わることはないのです。

今を喜ぶことは決して難しいわけではりません。

例え余命を宣告されたとしても、今は生きているのです。生きて心が使えるのです。心を使えれば喜びの心を造り運命を変えられるのなら、喜び以外の選択肢がありましょうか?

病気したとしても全体の守護から比べれば、ほんの一部です。

病気以外のことは十分に守護が溢れているのではないですか?

三つの理に心合わせれば魂の視点から自分自身を俯瞰することができます。

今、この瞬間、自分自身にいただいている守護の喜びを沢山見つけてください。

 

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