池袋暴走事故:全ドライバーへの提案
2019年4月に発生した池袋暴走事故で、警視庁は11月12日、乗用車を運転していた旧通産省工業技術院の元院長・飯塚幸三容疑者(88)を、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)の疑いで書類送検した。
記憶に新しい4月19日に発生した、東京・池袋で当時87歳の飯塚幸三容疑者が運転する車が暴走し、12人が死傷した痛ましい事故。
漸く書類送検に至ったが、遺族の悲しみ苦しみを全く理解せずメーカーに原因の矛先を向ける姿勢には憤りを通り越して、本当に同じ血の通った人間なのかと疑いたくなる。
私たちはTVやネットのニュースで事件の概要を知るに過ぎないが、1つの事故が引き起こす悲しみは余りにも大きい。
こんな悲しみが何時まで続くのだろうか?
今回の事故は87歳の高齢者ドライバーという点にスポットが当てられているが、これは何も高齢者に限った話では無い。
車を運転する全ての人間に起こりえる惨劇なのだ。
誰だって事故を起こそうと思って運転している者はいないだろう。
飯塚幸三容疑者だってよもや自分がこんな大事故を起こすとは夢にも思わなかっただろう。
車なんて少し注意が逸れたらあっという間に大事故を起こす。
一度事故を起こしたら猛スピードで疾走する鉄の塊は恐ろしい殺戮兵器と化す。
運転手は殺戮兵器を操縦している想像力を常に持たなければならない。
自分は大丈夫。
自分だけは事故するはずはない。
警察に見つからなければ、これくらいの違反は大丈夫。
こんな身勝手で無責任な態度。
想像力が欠如しているのだ。
相手を思いやる優しさが欠落しているのだ。
以前、運転中にラジオを聞いていたら、ある女性ドライバーの投稿に感心したことがあった。
運転中、迷惑な歩行者に対して文句を呟いたところ、助手席の夫から「運転する資格がない」と言われ憤慨していると、「運転手は歩行者を守る義務がある」と諭されたそうです。
なんて立派な夫、立派な運転手としての心得。
私はそれ以来、「運転手は歩行者を守る義務がある」の心得を胸に刻みながら運転するようになった。
車は凶器なのだから、凶器に曝される側の歩行者側の視点から運転状況を観察しなければならない。
歩行者を思いやる視点、歩行者を危険から守る視点。
辛抱治郎氏の見解
ごもっともである。
しかし被害者遺族が訴えているように、この事件を切っ掛けとして、全ドライバーが今回の事故を自分事として真剣に向き合わなければならない。
ドライバーの一人一人が運転意識を高めなければならない。
現在、 日本で一番運転意識の高い運転手は誰だと思いますか?
それは天皇陛下を乗せる運転手です。(勝手な推測ですが・・・)
後部座席に天皇陛下が乗っておられたら全神経を運転に集中させるでしょう。
事故の原因は集中力が散漫になり運転操作を誤ること。
そこで寿限無からの提案です
そこでバックミラーの片隅に天皇陛下のお写真を貼らせていただく。
これを全車両に義務化しましょう。
一人一人が天皇陛下を乗せて運転している気高い意識を持つことで、事故を未然に防ぐことができると思うのです。
いや、絶対にできます!
しかし天皇陛下のお写真では余りにも恐れ多いという人は、池袋事故現場の写真を貼り、常に事故の教訓を胸刻み込みながら運転を心がけましょう。
以上、寿限無からの提案でした。
『桜を見る会』の中止報道に思うこと
例年4月に新宿御苑で行われている「桜を見る会」に安倍晋三首相の後援会関係者が約850人が招待されるなど、野党が税金の私物化と批判を強めている
それを受けて
これが今回の騒動(野党が騒いでいるだけ?)になっている事の顛末。
そもそも『桜を見る会』とは?
「各界において功績、功労のあった方々を招き日頃の労苦を慰労するため」を目的とし、皇族、元皇族、各国大使等、衆議院議長と参議院議長及び両院副議長、最高裁判所長官、国務大臣、副大臣及び大臣政務官、国会議員、認証官、事務次官等及び局長等の一部、都道府県の知事及び議会の議長等の一部、その他各界の代表者等、約1万人が招待され、酒類や菓子、食事が振る舞われる。招待客の参加費や新宿御苑の入園料は無料であり、費用は税金から拠出される。
成る程成る程、『各界において功績、功労のあった方々を招き、日頃の御苦労を慰労する』ことが会の趣旨なのですが、今回は招待客の選出に不明な点が多かったため、野党の鼻息荒い追究となったようです。
桜を見る会。消費税も増税し、まだまだ予算の無駄を削る必要がある中、こんな会の予算は真っ先に切るべきだ。そのお金は他に回せばいい。こんな予算も削れずに、予算改革などできるわけがない。ただし野党が安倍政権を追及するのも茶番。旧民主党も桜を見る会を開いていたのだから。
— 橋下徹 (@hashimoto_lo) November 11, 2019
野党が、誰をどのような基準で呼んだのか不明だと安倍政権を追及するのは不毛。旧民主党は明確な基準があったというのだろうか。そこが問題なのではなく、与野党含めて、こんな会を開き続けてきたことを反省し、来年から即中止すべきだ。大阪はこの手の予算を削り倒して、現在財政は改善傾向にある。
— 橋下徹 (@hashimoto_lo) November 11, 2019
橋下氏は『こんな会』と批判している。
日本テレビ『スッキリ』コメンテーターのロバート・キャンベル氏は『中止にしないで欲しい』と好意的なコメント。ちなみにキャンベル氏は一度招待された経験があるらしく、会の雰囲気や内容などは素晴らしかったそうです。まあ、招待されたら素直に嬉しいでしょう・・・名誉に感じると思います。
私が一番言いたいのはここなのです。
税金の無駄とか、会自体に意味が無いとか、そんな事はどうでもいいのです。(どうでも良くはないですが・・・)。
私が一番問題にしているのは、
『招待されたら誰だって嬉しい』ということなのです。
何言ってんだコイツ?・・・と思うかもしれませんが、例え功労者と言えど、一部の人間を招待するのはハッキリ言ってズルいです!インチキです!(子供か!)
功績を残した人だけが苦労しているわけではありません。
国民はみんな一生懸命に働き、少ない稼ぎの中から税金を納めて、国のために貢献しているのです。
名もない(いやあるけど)一般のサラリーマンと、功労者の間に、それほどの差があるのだろうか?
例え功労者がより多くの功績があったとしても、そもそも功績がある人は周りから讃えられているのです。功績に見合う報酬だって少なからず受けていると思います。
それより社会の片隅で細々と頑張っている一般ピープル達に、もっともっと焦点を当てて欲しいのです。
そこで寿限無からの提案です
今後、『桜を見る会』は国民の中からランダムで選出することにしましょう!
日本国民なら誰でも『桜を見る会』に招待されるチャンスがあるのです。
もし『桜を見る会』で首相に相まみえ、日頃の貢献を労ってもらえるチャンスがあるとしたら?
おそらく全ての国民は、その日を夢見て日々襟を正して生活するのではないでしょうか?
これなら選出の基準も公平だし、国民を鼓舞する意味もあるし、誰も文句が言えません。
選出の基準には犯罪歴や税金滞納歴があっても分け隔てなく招待します。
素行に問題がある人も、『桜を見る会』に参加して首相に言葉を掛けてもらうことで、素行を正す切っ掛けになるかもしれません。
今後、『桜を見る会』は『一人の国民として価値ある存在』と認識させてくれる素晴らしい会に生まれ変わるのです。
以上、寿限無からの提案でした。
魂文明の切り無し普請に踏み出した私たち
身上・事情【*1】のお仕込み【*2】を頂いたとき、身上・事情は不都合な喜べない現実に映る。
身上・事情のお仕込みを頂いたとき、理を知る者の心は常に、人間心と魂の狭間でせめぎ合う。
未だ心根が確立されていないから、不足と喜びと二つの選択肢の狭間でせめぎ合う。
三つの理、かしものかりもの、心通りの守護、人間の心は自由。
この三つの理を心根に確立した者の心はせめぎ合わない。
三つの理を心根に確立した者の心は、喜びの心一つに確立される。
何を見ても、何を聞いても、何に触れても、神様の与え、神様の守護と即喜ぶ魂の確立。
月様の心を即喜びで受ける日様の如く、打てば響く喜びの心が確立される。
神様のすること成すことに何一つ疑いはなく、神様のすること成すことを理の与えと喜びに勇み立つ。
180年間続く神の思想の中で、人間を困らせよう、難儀させよう、罰を与えよう・・・などと惨い心は一欠けらも見つけられない。
人間が難儀するのは人間自身の心が原因であり、神様を恨むよりも、我が身思案を恨み、我が身思案を理の思案へと立て替へ、運命を立て替えさせる神様の思惑。
実際、人間の身体はかしものなのだから、実際にご苦労くだされているのは神様の方であり、人間は自分勝手に難儀と思い込んでいるだけの話である。
身上壮健の結構な守護は心に掛からず素通りしてしまうが、痛い苦しいと言う感覚は心に掛かり留まり続ける。
身上壮健も、痛い苦しいも同じ神様の守護。
同じ神様の守護でも心に掛かるなら、それが喜びと転じるチャンスがある。
人間の心に掛かればしめたもの。
このまま人間思案で陰気暮らしを余儀なくするか、理の思案で運命を喜びに立て替えるか・・・後は人間の選択に委ねられる。
神様が何よりも守りたいのは、人間の魂。
神様は、いつでも人間の心自由をお守りくだされている。
何故なら絶対的自由こそが人間の本来の姿であり、絶対的自由からしか陽気暮らしは実現しないのである。
神様が形一切をかしものと定めているからこそ、絶対的な心の自由は保証され、絶対的自由を自覚した心が生み出す喜びが、心通りの守護によって神様が勇む理となって世界一列を潤す。
日々三つの理で磨き鍛えられた心には、もはや選択肢は存在しない。
心根に三つの理を確立した心には、喜びの答えしか生まれない。
もう、どんな与えも神様の守護でしかないのだ。
もう、どんな与えも喜びにしか感じられないのだ。
もう、そこまで理を仕込まれ、魂を確立して頂いた私たち。
もう、魂文明の切り無し普請に踏み出した私たち。
信仰で病気は治るのか?(9):病気が健康な心をつくる
病気が健康をつくる
健康とは病気を患っていない状態です。
病気を患っている状態は健康ではありません。
わたしたちは普通、「健康」と「病気」は別々のものとして分けて考えますが、「神の思想」では健康も病気も同じ「心通りの理」カテゴリーなのです。
「健康」も「病気」も同じ「心通りの守護」ですが、守護の感じ方に大きな違いがあります。
健康=(イコール)喜びの心
病気=(イコール)喜べない心
病気を喜べないのは仕方ないですよね。痛く苦しいのですから。
でも、「神の思想」って「人間の喜びを見て共に楽しむ」ことですよね?
人間の喜びが見たい神様の世界に、何故、人間を痛め苦しめる「病気」が存在するのでしょうか?
可笑しいですよね?
人間の喜びが見たいなら「健康」だけ守護すればいい・・・と思いませんか?
しかし、どうでしょう?
今現在、「健康」を守護いただいている人は「健康を喜んでいる」でしょうか?
殆どの人は「健康は当たり前」「健康が通常体」だと思い違いして、「健康」を喜ぶこともなく、神様の守護に感謝することもなく暮らしているのです。
だから病気を守護して、健康の有り難み、健康の喜びを感じさせるのでしょうか?
それも確かにあります・・・。
しかし、
健康を喜べない。
これは神様の守護を知らない、又は忘れているのが大前提です。
神様の守護を知らないと大変なことが起こります。
「病気」が外敵になってしまうのです。
外敵なら排除してしまえ!と考えてしまいます。
でも、待ってください。
「病気」は「心通りの守護」の結果です。「心通りの守護」と収穫(喜ぶ)すれば実り(病気)は消えるのです。決して外敵でも、得体の知れない恐怖でもありません。神様の思いが掛かった守護そのものです。
「心通りの理」に反して収穫(喜ぶ)しなければ、例え「病気」という形だけを取り除いたとしても一時凌ぎに過ぎず、病の根は残ったまま。いつ何時生えてくるか解りません。
つまり「神様の守護」を知らないということは、常に病気を患う不安や恐怖と隣り合わせの暮らしが続くのです。
心に不安や恐怖を抱えているということは、心が病んでいる状態と言えます。
心が病気なのです。
心が「喜べない病」を患っている。
不安や恐怖心が「喜べない種」を常に撒き散らし、結局、自分自身で病気の原因を拵えているのです。
要するに「病気」は自分の「喜べない心」を見ていると同じ。
「病気」は「心通りの理」の鏡に映し出された「喜べない心」の姿。
「病気」を見て喜べないということは、自分の心に「病気」を映し返しているに過ぎないのです。
「心」を鏡にする必要はありません。
人間の心は自由です。
「心自由の理」。
「心に喜び」を宿せば、「心通りの理」の鏡に映るのは「喜びの心」。
その結果、病気は治まり、健康の守護をいただき、健康を喜べる・・・ということは?
病気が健康な心をつくる
のです。
「健康な心」さえあれば、いつでも「喜びの種」を蒔き、喜びの実り(健康)を収穫(喜ぶ)ことができるのです。
病気は神様の守護を喜ぶ「魂の感受性」を磨いていたのです。
病気は痛く苦しいですが、人間の一生を考えたら健康な日々が殆どで、病気を患う時間はほんの少し。痛め苦しめるのが神様の目的ではありません。魂の親として人間の痛み苦しみは神様自身が一番見たくないのです。
見たくはないが、だからと言って理を曲げてしまえば、喜びの方程式は瓦解し、人間創造は頓挫してしまいます。
神の思想を信じ、三つの理を思考し、魂で喜びの答えを出してください。
頑張るってなにを頑張るの?
母「仕事に行ってきます」
子「頑張ってね」
母「お前もな」
母子「(笑)」
日常の会話で何気なく使っている言葉。「頑張る」。
がんば‐る【頑張る】
- 忍耐して、努力しとおす。気張る。「よく―・って見事に仕上げたものだ」
- ゆずらず強く主張し通す。「―・って言い返す」
「頑張る」という言葉の裏には、常にマイナス思考が潜んでいる。
- 肉体の負担
- 人間関係の憂鬱
- 時間の束縛
- 気が乗らない仕事
・・・・だから頑張る。
「頑張る」という言葉自体はプラス思考だが、プラス思考はマイナス思考の裏返し。
マイナスがあるからプラスの発想が必要になる。
趣味や遊びを「頑張る」とは言わない。
子「遊びに行ってきます」
母「頑張ってね」
子「うん頑張る」
子「・・・って、なにを?」
趣味や遊びに「頑張る」は必要ありません。
楽しく過ごしている時は不思議と疲労しない。
夢中で過ごしていると時間があっという間にたってしまう。
脳のメカニズムは下記のようになっているらしい。
「疲れ」は、視床下部から、本能や喜怒哀楽、情緒、睡眠や夢などを司る大脳辺縁系に伝えられます。
一方、「やる気」は大脳皮質が情熱をもってやるべき!と判断した上で、大脳辺縁系に伝えられます。つまり、「やる気」と「疲れ」は脳の同じ場所で処理されているのです。
好きなこと・趣味など活動意欲に燃えているときに「やる気」の指令が増えることで「疲れ」の感情の出番がなくなり、結果的に疲れを感じにくくなります。これが楽しい好きなことや趣味で疲れを感じない理由となるのです。
本当は仕事もそうなのだ。
仕事も楽しく夢中で働いていれば、あっという間に時間は過ぎ疲れも溜まらない。
お客様に感謝され、人の為に役に立てた喜びがあると、疲れるどころかパワーが漲ってくる。心に喜びがあると体も気持ちよくなってくる。
これが、仕事でミスした、怒鳴られた、お客様に迷惑をかけた・・・となれば、心労が溜まり気力も低下し、体の疲労感も強くなる。
そしてマイナス思考に心が支配されると様々な愚痴が溢れてくる。
- 家族の時間を犠牲にして働いている。
- もっと趣味や遊びに興じたいのに。
- 営業なんか好きじゃない。
- 上司の態度が気にくわない。
それでも仕事を辞めるわけにもいかず「頑張る」しかない。。
でも、頑張るってなにを頑張るの?
嫌なことを堪え忍ぶの?
マイナス思考をプラスに変えるように努力するの?
喜べない状況を頑張って喜ぶの?
頑張って喜ぶ?でも可笑しくない?
だって喜びは自然に感じるもの。自然に湧き上がってくるもの。
それでは「三つの理」で思考してみましょう。
(1)借りものの理
体は神様にお借りしているものです。
「借りもの」である限り人間の思い通りに動きません。
疲労した体、人間関係、仕事のトラブル等、形を思い通りに動かすことはできません。
ですから、一旦、思い通りにならない形から心離してください。
思い通りにならないのが当たり前なのです。
(2)心通りの理
人間の心は神様に受け取られ心通りに御守護いただきます。
ならばと、喜べない状況を頑張って喜んでもみても、その本音は「喜べない心」です。
この世界が心通りの守護に支配されている以上、今の現状を変えられるのは、自然に湧き上がる「喜びの心」しかありません。
それでは自然に湧き上がる喜びとは一体なんでしょうか?
(3)心自由の理
何時如何なる時も、自然に感じ湧き上がる喜びの絶対値。
それは「神様の思想」に他有りません。
「人間の喜びを見て共に楽しみたい」という思想の元、神様の守護で人間は生きているのです。
もしも病気で何ヶ月も体が動かなかったとしたら?
体が動くだけで感動です。
歩けるだけで幸せです。
ましてや仕事に行って働けるなんて、どれだけ有り難く、もの凄いご守護なのでしょうか?どんな仕事でも喜べるというものです。
人間のマイナス思考もプラス思考も、全ては「神の思想」の上に成り立っているのです。「かしものかりもの」があればこそ心を使え、「心通りの守護」があればこそ心が成就する喜びを味わえるのです。
そして「人間の心は自由」だからこそ、何時如何なる状況下でも「神の思想」に立ち返り、自然に湧き上がる喜びを感じることができるのです。
自然に湧き上がる喜びの心があれば、その心通りに気力体力共に充実した一日を過ごすことができるのです。
頑張るってなにを頑張るの?
「頑張る」必要はありません。
魂の力、心の自由を発揮して「神の思想」に立ち返り、「三つの理」で思考し直せば、必ず自然に喜びが湧き上がってきます。
「三つの理」は全てが喜びで組み立てられた思考方法です。
見るもの、聞くもの、触れるもの、全てに神様の守護を感じて、まるで趣味や遊びのように夢中で、楽しく過ごすことができるのです。
心に本当の喜びがあれば、その心通りに困難は収穫されると同時に収束し、新たな喜びの展開を見せるのです。
仕事で成果を上げる、褒め称えられる、お客様に再評価される・・・などなど。
「三つの理」で思考する魂人間は「頑張る」必要がないのです。
しかし、「頑張る」の言葉の中には、相手の無事を祈り、成功を願う優しい心が込められていると思います。
子が親にかける気遣い。親が子にかける愛情。
決して意味の無い言葉ではありません。
母「仕事に行ってきます」
子「頑張ってね」
母「うん頑張る」
子「いってらっしゃい」
母「いってきまーす」
信仰で病気が治るのか?(8):直ぐに病気が治らない理由
直ぐに病気が治らない理由
殆どの病気が生活習慣から発症する「生活習慣病」と言われています。
本人も病気の原因と気が付かず、知らず知らずに長い期間をかけて病気を製造しているのです。暴飲暴食、運動不足、睡眠不足、人間関係、仕事のストレス等、病気の原因を積み重ねに積み重ねた結果、病気として発症するワケです。
三つの理から思考すれば、長い期間をかけて「喜べない心」が癖として染みつき、その結果、病気という形で「心通りの守護」をいただいたと解釈できます。
そこで「心通りの守護なら喜べば病気が治まる」・・・と信じて心運んでみたものの、一向に病気が治まる気配がない。
本当は喜んでいないのでは?
ハッキリ言ってしまえば、その通りなのですが、長い期間かけて染み付いた心の癖は、そう簡単に払えません。
これまでは「喜べない心」が生活習慣化していたのだから、これからは「喜べる心」を生活の柱として「喜びの習慣」に立て直す必要があるのです。
そんなに時間が掛かるの?と思うかも知れませんが、「心通りの守護」とは喜べない心より、喜びの心の方を優先的に守護する法則なのです。「三つの理」に心合わせて、意識的に「喜びの心」を使う鍛錬を繰り返せば、「喜びの心」は癖として固まると同時に「喜べない心」の癖を払い落とし、直に心通りに喜びの実がなるでしょう。
少し試してみて「本当に効果があるのだろうか?」と疑念が湧き、あと少し試してみて「なんだ全然効果が無いじゃないか!」と癖の改善を止めてしまえば、後に残るのは更に強固になった喜べない心の癖です。
元々疑い心で試していたのです。疑い心があるのは仕方がないことですが、何でも効果が出るまで時間が掛かるものなのです。ダイエットも勉強もスポーツも、それに見合う心が造られて始めて効果(心通りの守護)が現われるのです。
ですが、喜びの心の方を優先的に守護する法則の最上位は「真(まこと)の喜び」であり、「真の喜びは、直ぐに受け取り直ぐに返す」と教えていただきます。
「真の喜び」とは神様と同じ喜び。即ち「人の喜びを見て共に楽しむ」優しい心。どんな病の中にあっても「三つの理」を信じ、神様に凭れていれば、我が身の不安は消えて、人を思いやる優しい心だけが残ります。
自分が病の最中にあっても、健康な他人の喜びを楽しめる理由は、神様の守護に「真の喜び」を感じているからです。
自分は魂一つの存在。
体、病気、環境、全ての形は神様がお守りくださる安心安全な喜びの形。
神様が創造したいのは「人の喜びを見て共に楽しむ」優しい心の人間、魂人間なのです。
「三つの理」に疑いを持つ前に、自分の心に疑いの目を向けて、喜びの心造りをやり遂げてください。
信仰で病気は治るのか?(7):痛みの最中でも喜べる理由
頭痛、歯痛、腹痛・・・怒濤のように押し寄せる激しい痛みの中、はたして「喜びの心」に成れるのでしょうか?
否、気合いや根性でも喜べるものではありません。
- 頭をハンマーでガンガン殴られるような頭痛。
- 歯茎をノコギリで刻まれて切るような歯痛。
- 内臓をミキサーでかき混ぜられているような腹痛。
人間は痛みに弱いものです。
これは体の構造上仕方が無いことなのです。体がダメージを受けると、脳に「痛い」と認識させる信号を送り、体がこれ以上ダメージを受けないように、脳が「避ける」行動を指示するためです。
脳が痛みを避けるように創造されているのです。
つまり「痛みを喜ぶ」とは体内の自然な働きに逆らって、心を生み出すことを意味します。しかも我慢ではなく喜びの心を生み出すのです。
はたして、そんな大それた挑戦が可能なのでしょうか?
わたしも初期の頃は全く喜べませんでした。「こんな痛みはマゾでも喜べない!」と心底思いました。
厄介なことに痛みは「負の感情」が伴います。
足の小指を机の角にぶつけたら「くそ!」と怒りの感情が伴い、長引く痛みには拒絶・不安・恐れの感情が伴います。この負の感情が厄介なのです。
負の感情が伴っている限り「痛み」を超えることはできません。まずは負の感情をなんとかして払い落とす必要があります。
負の感情を払い落とすのは、正の感情(喜びの心)の役目です。
「これで良かった、これで満足」という感情が喜びの心ですが、この喜びは「三つの理」を土台にした理性的な思考から生まれるのです。
足の小指を机の角にぶつけて「くそ!」と怒り心頭のあなた。末端に意識が行き届いてない不注意に気がつけて良かったと思わないですか?。もしこれが自動車の運転だったら不注意が事故を引き起こしたかもしれません。「ああ、この程度の痛みで不注意に気がつけて良かった。」と大難を小難に守護くだされた神様に感謝の気持ちが湧いてくるはずです。
長く続く痛みは精神的にも肉体的にも疲労が蓄積されます。一刻も早く病状から回復したいものです。
しかし、痛みに拒絶・不安・恐れの感情を抱いたままでは「喜べない心」から先へ進めません。
そこで一つイメージしてください。
あなたは今、地中深い洞窟の行き止まりにいます。目の前の分厚い岩盤をスコップで砕けば巨万の財宝を手に入るとしたら?勿論、あなたは命懸けで岩盤を破壊するはずです。何日間もただ只管スコップを振り下ろし、手は血豆だらけ、全身の筋肉は疲労と痛みで悲鳴を上げ、跳ね返る岩片で全身傷だらけ、食料も底をつき、乾いた喉を潤す水もない。正に生死の境での掘削作業だが、心は希望と喜びに満ち溢れている。
何故なら、どんなに痛く苦しく辛くても、その先には確かな喜びが待っているのだから・・・先にある巨万の財宝を手に入れられるのなら、どんな艱難辛苦も嬉々として耐え凌ぐことができる・・・。
これは「長引く痛みの先にある価値」を確信することで、例え艱難辛苦がの道程だとしても、喜び勇んで通り切ることができる一つの例です。
実際には巨万の財宝はありません。しかし「三つの理」を土台にした理性的な思考により、巨万の財宝以上の価値を見出すことが可能なのです。
体が病気で自分の思い通りにならない時は、「自分の思い通りなる」という思い違いを正す時なのです。体は「借りもの」。人間には創ることも動かすこともできない「神様のもの」です。
大抵の人は「自分の体」と思っています。自分の体と思っている限り「体があるのが当たり前」と信じて疑うことはありません。
しかし肝不全一つでも患えば、血液のろ過が充分に行えず、水分や老廃物のコントロールができなくなり、肝機能を補うために定期的な治療が必要になります。今までは何不自由なく当たり前に機能していたのに、機能不全になれば高額な医療費、治療にかかる時間等、様々な生活の面で不自由が発生してしまいます。
肝臓一つとって見ても、どれほどの価値を秘めているか解ると思います。
「痛み」により、「借りもの」を知るのです。
「痛み」により、借りているものの「価値」を知るのです。
「痛み」により、「無事無難の喜び」を知るのです。
「痛み」は実感です。
「痛み」は「借りもの」の実感です。
「借りもの」の実感は、借りているものの「価値」の実感です。
体は自分のもの?
「痛み」は、この「思い違い」を一掃してくれます。
「痛み」は心通りの守護。
「心通りの守護」は「罰」とは違います。
今以上の喜びを感じるために、現状一番必要な与えが「心通りの守護」なのです。
神様が「心通りの守護」を与える理由は「人間の喜びを見て共に楽しむ」ためですが、人間創造の終着点は「魂人間の誕生」です。
神様の守護を感じて喜びづくめの人生を謳歌する「魂人間の誕生」。
「痛み」の中には神様の深い思惑が隠されているのです。
最後にもう一つ。
心通りに「痛み」を守護いただいたなら、他人に痛みを与えたのかも知れません。人間は今世しか記憶にないので真相は分かりません。これは一つの悟り方です。
他人に痛みを与えるということは「他人の痛みが分からない」ということ。他人の痛みを分かち合う感受性が鈍いのです。
暴言等で直接他人を傷付けることもあるでしょうが、知らず知らずに他人を傷付けるてしまうこともあります。「今さえ楽しければ、自分さえ楽しければ」の心は、自分の喜びのためなら他人の不幸も厭わない酷い心なのです。それでは他人を傷付けているも同じです。
もしかしたら、自分勝手な喜びの影で「心痛め傷ついている人」がいたかもしれない。
否、絶対にいたはず。「三つの理」を知らなければ酷い心は避けられないのです。
自分も同じ痛みを味わうことで、他人の痛みを共有し、他人の喜びを思う優しい心になれるなら、こんな有り難いことはない。
「痛み」によって、自分に巣くう「酷い心」が洗い流されるなら、今よりもっとマシな人間、もっともっと優しい人間、もっともっともっと喜び多き人間になれるなら、こんな有り難い痛みはありませんよね。
みなさんも「三つの理」で思考して、これ以上に喜べる理由を見つけてください。