人間の体が思い通りに動く理由。心通りの理
人間の体は神様からお借りしているもの。人間のものではありません。借りているからと言って自由に使うことはできません。
それでは人間の体は何故思い通りに動くのでしょうか?
人間に許された理と許されない理
大抵の人間は、体は「思い通り」に動くと信じています。「水を飲みたい」「トイレに行きたい」と思えば体は思い通りに動きます。間違っても水を飲みたいのにトイレに行くことはありません。体が思い通りに動くのだから当然ですが、全て思い通りに動くわけではありません。
思い通りに体が動くと言っても極めて限定的です。
- 鳥のように飛びたいと思っても飛べない。
- 100メートル5秒で走りたいと思っても走れない。
- 魚のように自由に泳ぎたいと思っても泳げない。
- 寿司千貫食べたいと思っても食べられない。
- 永遠に生きたいと思っても生きられない。
など・・・
反面、日常生活において大抵のことは不自由無く思い通りに動きます。
- 顔を洗う
- 服を着替える
- 食事する
- 家事をする
- 勉強や仕事をする
など・・・
思い通りになる部分とならない部分、この違いはどこから生まれるのでしょうか?
更に、思い通りになる部分においても、得手不得手があります。100メートルを10秒で走れる人もいれば15秒が精一杯の人もいます。この違いもどこから生まれるのでしょうか?
その答えは「理」が有るか?無いか?の違いなのです。
理が無い
- 鳥のように飛ぶ理がない。
- 100メートル5秒で走る理がない。
- 魚のように自由に泳ぐ理がない。
- 寿司千貫食る理がない。
- 永遠に生きる理がない。
など・・・これらは神様に許されていないこと
理が有る
- 顔を洗う理がある
- 服を着替える理がある
- 食事する理がある
- 家事をする理がある
- 勉強や仕事をする理がある
など・・・これらは神様に許されたこと。
有形には限界が定められています。
鳥のようも飛びたいと思っても人体は飛行に適した構造をしていません。100メートル9秒台が最速だし、魚のようにえら呼吸もできないし、胃袋の大きさにも限界があります。命あるもの形あるもの必ず死を迎え朽ち果てます。
理が有る無いの違いは、神様が決めたことなので人間は文句を言えません。(文句は言えますが言ったところで理は変わりません。)
しかし、ここで一つ疑問が生まれます。思い通りになる中で得手不得手で差が生じますが、これも「理が無い・理が有る」の違いなのでしょうか?
厳密に言えば「理が無い・理が有る」の違いですが、この場合の理は人間が使う「心の理」です。得手不得手の差は、人間の心に「理が有るか?無いか?」の違いで生じるのです。
神様は有形に限界を定めましたが、人間の「心の理」が有形の限界に無限の可能性を広げることができる・・・これが心通りの守護なのです。
解りやすく説明すれば、人間は鳥のように空を飛ぶ理が無りません。しかし、心を使い、心通りの守護をいただくことで飛行機を製造し空を飛べたのです。
決して人間独自の力で飛行機を製造したのではありません。
飛行機の元になるアイデア、素材は全て有形の中にあったのです。神様が創造した地球という有形の中にジェットエンジンの素材、燃料、鉄の塊が空を飛ぶ航空力学も、全ては人間の心通りに守護いただいた神様の創造物なのです。どんな優秀な人間でもゼロから有形を創造することはできません。元々存在する有形を発見し、許された理の範囲で発明、開発し、心通りの守護をいただいた結果の「思い通りの喜び」なのです。
全ては「心通りの守護」なのです。
「思い通り」と「心通り」の違い
「思い通り」ではありません。「心通り」なのです。この二つは厳密に異なります。
前者は文字通り「思い」であり「水を飲みたいな・・・飲みたいなあ・・・」という未だ定まっていない意識。
後者は「水を飲む」という定まった意識、又は行動に移す動機となる意識。
簡単に説明すると、億万長者に成りたい「思い」があるとします。しかし、思いだけ大きく立派でも一日中働きもせず家でゴロゴロして、億万長者に成る「心(一生懸命勉強し働くなど)」がなければ、神様も受け取りようがありません。心とは有形に現われて始めて「心」と言えるのです。有形に現われなければ「思い」のまま、ただ思っているだけでは無駄に時が過ぎてしまいます。
そもそも有形は「思い通り」になりません。「思い通り」になっているように見えて実は「心通り」にしかならないのです。
もし「人生は思い通りにならない。」と考えるなら、自分の「思い」と実際に使っている「心」に乖離があるのです。「こんなに頑張っているのに何故結果がでないのだ?」とお嘆きなら、それは頑張る方向が間違っているのです。なかなか思い通りにならずイライラして他人に八つ当たりするなら、一旦今の思いは捨て去りましょう。
思いが強いのは結構なことですが、思いが強すぎると「強欲」となり物事に良い影響をあたえません。寧ろ事態を悪い方向へと進ませてしまいます。強欲は自分だけの喜び・成功を追い求めて他人のことなど眼中に入らない酷い心。心通りの守護が支配する世界で、いくら喜べない種を蒔いたところで喜べない実りしかありません。
神様に真っ先にお受け取りいただけるのは「人の喜びを見て共に楽しむ」優しい心。今使っている自分の心を「三つの理」に当て嵌めて顧みれば、自ずと「思い通りにならない」原因を悟ることができるでしょう。
喜んでいるか?喜んでいないか?今使っている心の正体が解れば、後は「三つの理」に従い心の向きを正すだけ。
「思いの実現」と言っても、結局、最終的に求めているのは喜びなのだから、今、喜べていない時点で、その思いは断たれているのです。
今の心に喜び無くして「思いの実現」は有り得ません。今の喜びだけが次の喜びに繋がり、喜びが繋がった先に「思いの実現」があるのです。つまり「思い通り」に成るのは「心通りの守護」の結果なのです。
まとめ
人間の体が思い通りに動く理由。答えは心通りの守護。
心通りの守護があるお陰で、人間の心は有形として成就し、心通りの喜びに与るのことができるのです。