寿限無の日記

魂人間の寿限無が綴る魂のブログ

信仰で病気は治るのか?:「病は気から」の科学(6)

f:id:Prince1999:20191023175749p:plain

「病は気から」の科学

「病は気から」。

病は気からとは、病気は気の持ちようによって、良くも悪くもなるということ。故事ことわざ辞典より。

http://kotowaza-allguide.com/ya/yamaiwakikara.html

 

 「病は気から」で検索すると”「病は気から」は本当だった”をタイトルにしたページが多くヒットします。

どうやら北海道大学の研究チームによる、マウスを使っての実験結果らしい。

「病は気から」というが、北海道大学の村上正晃教授(免疫学)らのチームがマウスを使った実験で、ストレスが胃腸の病気や突然死を引き起こすメカニズムの解明に成功した。

https://www.j-cast.com/2017/08/17306027.html

 

 詳しい研究結果の記載は差し控えますが、要は「心が病に影響を与える俗説が科学的に証明された」ということです。

 

その他に、実際にはなんの治療効果もないはずの薬を飲んでいるのに、効き目があるのだという心理が働いて、本当に症状がよくなる「プラセボ効果(偽薬効果)」の記述も多く、医療現場での研究も進んでいるようです。

  

また、個人的な体験談も見受けられます。

わたしも若い頃、「病は気から」に纏わる印象深い体験をしました。

  

若い頃の話。親戚の引っ越しを頼まれていた日の前日に風邪を引いて、扁桃腺に白い斑点が沢山出来て、熱はあるし体は怠くて、とても約束を果たせそうにありまでした。

しかし道義の厳しい母に「約束したのだから行きなさい。向こうも当てにして待っているのだから!」と叱咤され、「まじか・・・」と思いながら渋々親戚の家に電車を乗り継ぎ向かいました。

ところが引っ越しの作業を手伝っている内に段々と体調が回復し、終わる頃には熱も引き、駄賃も貰い、元気に家に帰ることができました。

作業中は終始、気が張っていたのが影響したのでしょうか?

  

「病は気から」を垣間見た瞬間でした。その後も、この経験から少々体の具合が悪くても「病は気から」を心がけると気持ちが楽に通れました。ただ本格的に具合が悪くなれば寝込むしかありませんが・・・。

 

「病は気から」は間違うと「根性論」に捉えられてしまします。少々具合が悪くても「気を張って働く」・・・が「気合いを入れて働く」になり・・・気が付くと「根性を入れて働く」にすり替わる危険性があります。

「病は気から」と言ってもケースバイケースです。気合いでも、根性でも、出来ないものは出来ません。

 

そもそも体は「借りもの」ですから、人間の「気合い・根性」で動くものではありません。「心通りの守護」が許す範囲で動いているに過ぎないのです。

 

「三つの理」に照らせば「病は気から」は「病は心通りの守護(気)から」に変換できます。心通りに、喜べない心(気)が病気になるなら、病気に良い効果を与えるのは喜びの心(気)ただ一つです。

 

「病は気から」を科学的根拠で論じなくても、実際、心を使えば体が反応し動きます。

 

ラグビー日本代表のトライが決まれば興奮してガッツポーズを決めるし、逆転を許せば落胆して頭を抱えます。選手同士で喧嘩が起これば心拍数が上昇するし、タックルで怪我をして血を流せば背筋が寒くなります。

 

このように心はダイレクトに体に影響を及ぼしているのです。心ほど体に影響を与えているものはありません。心の状態が病気になんらかの影響を与えると考えるのは、ごく自然なことです

 

そして、「病は気から」に代表されるような、心と体の真実を教えてくれるのが「神の思想」なのです。

 

(心の動き・状態) → (心通りの守護) → (体の動作・状態)

 

病気も「心通りの守護」により症状に現われ、病気を「心通りの守護」と喜ぶことで症状も回復に向かいます。 

もし少し具合が悪い時、「病は心通りの守護から」と信じて、喜びの心を運んでみては如何でしょうか?

わたし自身の実験では、

  • 歯痛が瞬間的に治まる
  • 頭痛が緩和され次第に治まる
  • 発熱が大事に至る前に治まる

など効果が実証されています。

殆どの病はゆっくりと回復に向かうので「偶然?」と思うかもしれませんが、「偶然」が何度も何度も続けば「必然?」と思えてきます。

要は意識的に続けることが重要なのです。ダイエットと一緒で意識的に続けなければ効果は得られないのです。

痛く苦しい最中に喜ぶことは至難の業かもしれませんが、三つの理に意識を集中して是非挑戦してみてください。

   

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

 

 

科学が証明する人体の神秘

f:id:Prince1999:20191029115720j:plain


NHKスペシャルで人体の特集を放送した時のタイトルが「神秘の巨大ネットワーク」でした。公共放送が「神秘」です。司会の一人はノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥さんです。世界最高峰の研究者をもってしても人体は神秘と言わざるを得ないのです。実際に番組を観れば「神秘」としか感想が出て来ません。到底人間が太刀打ちできる領域ではありません。

人体を詳しく研究すればするほど神の姿が見えてくる・・・そんな心境ではないでしょうか?これも確かな知があってこそ得られる実感であって、無知の盲信とは異なります。

 

もし癌と告知された時、医者を盲信したら余命を受入れるしかありません。

 

しかし医療現場でも癌が自然に収縮する事例は確認されています。健康な人でも、毎日5000個ほどのがん細胞が発生するが免疫細胞のお陰で発症には至らないそうです。

今後、研究が進めば癌細胞を完全に治癒できる方法が発見されるかもしれません。しかし癌を克服したからと言って人類が人体を掌握できるわけではありません。

人体は神秘の彼方にあるのです。人間は神秘の恩恵を受けて神秘の外側で生かされ守られている存在なのです。人間が喜べない心の種を運び続ける限り病気が絶えることはありません。人類は決して神秘を掌握することはできないのです。

 

医者は神様ではありません。余命の宣告は医者の無力を告白しているに過ぎません。

 

医者に及ばず、全ての人間は形の前では完全に無力なのです。ただ心通りの守護をいただくお陰で動くのであって、神様の許しがなければ形は微動だにしないのです。

人体は神秘。

人体が神秘であるように、癌も神秘、様々な病気もまた神秘なのだから、「医学の知」より重要なのは「神秘の知」なのです。

 

 

 

信仰で病気は治るのか?:拝み祈祷で病気が治らない理由(5)

f:id:Prince1999:20191023175749p:plain

拝み祈祷で病気が治らない理由

神様に「病気を治してください。」とお願いしても簡単に病気は治してくれません。

全知全能の神様にも無理なことがあるのです。

人間の心を曲げること。

人間の心は神様にも曲げることはできません。

お願いする人間の心に「喜び」が無ければ、その願いを受け取ることができません。

「病気を治してください。」と病助けを願う心に「喜びの心」が無いのは明白です。

 

しかし天理教の有名は逸話では、願うことで病気が治る例が残されています。

「病に苦しむ母を救いたくて当時15歳の桝井伊三郎は教祖にお願いにあがるが、”母は助からない”と言われ泣く泣く家に戻る。だが苦しむ母を見て再度お願いにあがるが、やはり”無理な願いだ”と追い返される。それでも苦しむ母を見て絶えきれず夜遅くにお願いにあがると”たすからんものを、なんでもと言うて子が親のために運ぶ心。これが真実やがな。真実なら神が受け取る”。やがて母の病気は回復し桝井親子は熱心な信者になる。」

子が親のために運ぶ心。これは大抵の子が持つ心境ではないだろうか?否、親も子のためなら何度でも運ぶだろう。

現在でも病に苦しむ母のために神様にお願いする子は多いはず。ならば天理教に不思議奇跡が溢れて然るべきだが、もしかして願う以前に病院に駆け込んでしまうのだろうか?真相は定かでありませんが、桝井伊三郎には紛れもない真実があったはず。

2度も無理だと言われているのに願いにあがるのは、教祖を神様と信じているからだろう。その神様に対する絶対的な信頼は真実の喜びに繋がる。

病院の代わりではない。加持祈祷の代わりではない。教祖を真実の神と信じて願う心に真実が宿るのだ。

教祖の残した教典”みかぐらうた”に下記一節がある。

 

人の心というものは疑い深いものなるぞ

不思議な助けをするからに如何なることも見定める

 

先ず、不思議な助けが先にあるから疑いを払拭できる・・・と語られているが、桝井伊三郎は不思議な助けに与る前から、一切疑うことなく教祖を神と信じ切っていたのだ。だからこそ無理と言われても、神様なら無理も聞いてくださると最後まで希望を持っていたに違いない。

死の間際で苦しむ母を救いたい一心の中でも、決して消えない希望の灯火は、不安や恐れでは無く、紛れもなく喜びの灯火なのだ。

現在も桝井伊三郎と同じく素直な信仰者は多いはずだが、神様と信頼を寄せるべき教祖が存在しない。巨大な神殿でいくら願っても神様は答えてはくれない。

病気になると「何故?」と神意を知りたくなるが神様は決して答えない。

なぜって、答える必要がないからだ。

 

神の答え(神の思想)は「三つの理」で明確にされている

 

何故?病気になるのか?と「三つの理」で思考すれば、心通りの守護と答えが導き出される。それが神の答えに相違ない。

心通りの守護なれば、喜びの心で実り(病気)を収穫できる。それ以上の答えは人間に必要ないのだ。

本当に桝井伊三郎のように真実の心があれば、素直に病気を喜べるだろう。

何故?自分が?納得できない!・・・などと微塵も思わず、素直に神様を信じ切り、理に頼り切ることができるだろう。

もう拝み祈祷で助ける時代ではないのだ。

神の思想、三つの理があれば、人間はいつでも真実の心が出せるのだから。

  

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

 

 

信仰で病気は治るのか?:病気を喜ぶ二つのジレンマ(4)

f:id:Prince1999:20191023175749p:plain

病気を喜ぶ二つのジレンマ

病気も心通りの守護なのだから、病気を喜べば病気は治るんだ!

三つの理を思考して「喜ぼう」と思っても、いざ病気になると喜ぶことの難しさを痛感します。

「病気を喜ぶ」。この心境を少し考えてみましょう。

例えば「贈り物を喜ぶ」と言えば、贈り物自体に価値があるので自然に喜びが溢れてきます。「ご馳走を喜ぶ」「新車を喜ぶ」「マイホームを喜ぶ」・・・どれも自然に喜べますよね。喜べるということは、そのもの自体に満足しているからです。これで結構と喜べるのです。

しかし病気はどうでしょうか?

表面的に見たら喜べる要素はありません。痛いし苦しいし思い通りに動けないし・・・。

病気自体に満足して、これで結構と喜べますか?

 

ジレンマ1:治りたい欲

そしてここからが一つ目のジレンマなのですが、なぜ「病気を喜ぶ」かと言えば「病気が治りたい」ためです。「病気が治りたい」から「病気を喜ぶ必要がある」わけで、決して病気自体を満足しているわけではないのです。

病気という心通りの守護をいただいているのに、目の前の与えに満足せず、新たな欲求を生み出している・・・これが神の視点から見た心の実情です。

これは紛れもなく欲の心。心通りの守護に満足せずに、もっともっとと欲を出している姿。欲の心は「喜べない心」の大本命なのです。

喜べない心を使ったところで、喜べない実りの種にしかなりません。

先ず、目の前の実り、病気という心通りの守護を収穫しなければ、喜べない形のまま先へ進むことはできません。

実りを喜ばなければ収穫はできない・・・要するに理は動かないのです。

 

ジレンマ2:納得できない因果関係

二つ目のジレンマは「病気」を心通りの守護と納得できないのです。

喜べない心を使った瞬間に病気になれば、「あっ、心通りの守護をいただいた!」と納得しやすいはずです。

しかし「過去の心」と「病気」の因果関係がハッキリしないので、なかなか納得しずらいのです。

なぜ、過去の因果関係が分かり難いかというと、守護の法則に原因があったのです。

心通りの守護の原則は、人間の心を受け取り有形として守護することですが、「喜びの心」と「喜べない心」では、「喜べない心」より「喜びの心」の方が優先的に守護される仕組みなのです。

神様は、人間の苦しみは見たくないので、「喜べない心」は後回しで「喜びの心」を真っ先に守護すると定めたのです。

即ち、病気の守護をいただくということは、相当に喜びの心が薄くなり、喜べない心の生活が続いていたということです。本人は喜んでいたと主張するかもしれませんが、例え喜びと言っても、他人の喜びを顧みない「自分本位の喜び」は「喜べない心」に属する酷い心なのです。

喜びの心だったか?喜べない心だったか?自分であれこれ判断するより、現われた結果を答えとして受入れるのが正しい心の姿勢なのです。

そして「過去の心」と「病気」の因果関係が分かり難い原因はもう一つあるのです。

それは「過去を知る必要はない」ということなのです。

もし人間に前世の姿が見えたとして、もしも凶悪殺人鬼だとしたら?何十人も惨殺していたとしたら?あなたは冷静でいられますか?過去を知った後も喜んで暮らせますか?

おそらく深い後悔の余り、自殺したい衝動に駆られるのではないでしょうか?

一旦体を神様にお返しし、今世を終え、記憶をリセットすることで、無垢な魂として生まれ変わり新たな人生を踏み出せるのです。

勿論、記憶がリセットされても、使った心の理は魂に記録されているので、どのような形で来世に現われるかは解りません。

しかし、三つの理を信じて本当の喜び、魂の喜び、守護の喜びに目覚めるなら、どんな「喜べない心の種」も封じ込み、例えどんな形が現われたとしても心通りの守護と喜んで収穫すれば、新たな喜びの種を蒔き運命を変えることができるのです。

 

喜びは今この瞬間にある

 病気が治ったら喜ぶ。

これは未来に希求する喜びの姿であって今の喜びではありません。例え病気が治った未来を夢想したところで現実の喜びではありません。

現実は病気の真っ只中なら、実際に感じているのは「喜べない心」なのです。

喜びとは今の形(現実)の中にしか存在しないのです。

ゆえに今、喜びの心を造れなければ未来の形(現実)は、その心以上に変わることはないのです。

今を喜ぶことは決して難しいわけではりません。

例え余命を宣告されたとしても、今は生きているのです。生きて心が使えるのです。心を使えれば喜びの心を造り運命を変えられるのなら、喜び以外の選択肢がありましょうか?

病気したとしても全体の守護から比べれば、ほんの一部です。

病気以外のことは十分に守護が溢れているのではないですか?

三つの理に心合わせれば魂の視点から自分自身を俯瞰することができます。

今、この瞬間、自分自身にいただいている守護の喜びを沢山見つけてください。

 

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

  

 

信仰で病気は治るのか?:病気の役割(3)

f:id:Prince1999:20191023175749p:plain

病気の役割

人間を創造したのは神様です。

全知全能の力がありながら神自身の楽しみは何も無い。全知全能ゆえの悩み。

そこで神様は完全に独立した他者(人間)を創り、その者に守護を与え、その者の喜びを見て共に楽しもうと閃いたのです。

神様は人間が喜ぶために自由の心を与えました。この自由の心は神様にさえ邪魔することはできません。更に心が使えるように有形を守護しました。体を創り、衣食住を整え、地球、太陽、宇宙・・・と全ての有形を創造し、その全てを惜しげも無く人間に貸し与えました。有形を創造し動かすことは大変難しい神の領域です。そこで人間か難儀不自由しないように心通りの守護を定めたのです。

人間は心を使うだけで、心通りに有形を守護いただき、心通りの喜びを感じることができるのです。

このように常に神様に守られた喜びの満ちた存在が「人間」なのです。

そんな喜びの人生が約束された人間世界に、なぜ病気があるのでしょうか?

神様の創造した世界において、病気の役割とは一体何なのでしょうか?

 

健康を喜べない人間

殆どの人間は健康を当たり前と感じています。

本来健康であればこそ、朝気持ちよく目が覚めるし、ご飯も美味しくいただけるし、学校や職場へ元気に出掛けることができるし、趣味や遊びに夢中になり、家族団らんや友人との語らいを楽しめるのです。健康であればこそ将来に様々な夢や希望を持てるのです。

こんな有り難い健康に気が付かず生活しているのです。

「健康を喜びなさい」と言ったところで、「はいはい、わかった、わかった」と軽く流されるのが落ちです。毎日健康が続いていると有り難い実感に乏しくなるのです。

しかし健康が有り難いと実感できる時があります。

それが病気が治った時です。

 

病気が治ると健康の有り難みを実感できる

 痛く苦しい病気。早くこの辛さから逃れたい。布団から起き上がることもできず、かと言って眠ることもできず、食欲もなく、学校、職場、遊びに出掛けることもできない。この広い世界の中で身動きもできず、じっと一人で堪え忍ばなければならない。

数日間、病気が続いたが漸く体調も落ち着き、久しぶりに静かに寝付けた翌朝、心地よい日差しのぬくもりで目が覚める。体を起こせる。足の裏に伝わる地面の感触。窓を開ければそよ風が通り抜け、体中の神経という神経に喜びを伝えてくれる。毎朝、忙しく事務的に食べていた朝食がご馳走に感じられ、怠い学校や職場へも生き生きと出掛けることができる。そう健康の喜び、生きている喜びを実感できる・・・。

こう書き綴ってみると、病気で有り難いと思えてきますよね。

病気があるから健康の喜びを実感できるのです・・・。

しかし、ちょっと待ってください。

健康を喜ぶために病気が必要なら、世界から病気は永遠に無くならないのでしょうか?病気は健康の喜びを実感する装置として人間創造の仕組みに不可欠なものなのでしょうか?

 

病気は人間創造に不可欠なものなのか?

人間創造の目的は単純です。

神様が人間の喜びを見て共に楽しむため。

見るもの、聞くもの、触れるもの全て心通りの守護と喜べる「魂人間の誕生」が最終目的なのです。

今の人類を顧みたとき、そんな喜びづくめの人間が存在するでしょうか?存在しないですよね。つまり今現在も人間創造の過程にあるのです。今は人間の心に悪しき心の理(喜べない心)が蔓延っているので、悪しき形(病気、貧困、犯罪、災害等、喜べない形)を心通りに守護いただいているに過ぎないのです。

決して病気が人間創造に必要なわけではありませんが、現在の状況下では病気が喜びの反作用として重要な役割を果たしているのです。

 

喜びの本質とは神様の守護を感じること

このブログでは「喜び」という聞き慣れた言葉が何回も登場しますが、ここで語られている喜びのイメージは、わたしたちが知っている喜びとは明確な違いがあります。

「人間の喜びを見て共に楽しみたい」。この神の思想にある喜びとは、人間が「神様の守護を感じる喜び」なのです。喜びとは神様の守護を喜ぶこと。

肝心なのは健康だから喜ぶのではなく、健康の元にある神様の守護を喜ぶことなのです。そこに行き着くまで、人間は真の喜びに到達できないのです。

神様の守護に気が付かなければ、例え一時病気から回復し、健康の喜びを実感できたとしても、再び健康に慣れてしまえば元の木阿弥。健康を当たり前に感じ、できることにも愚痴を言い、何時又病気になるか解らない不安を抱えたまま、喜べない心の根が蔓延ってしまうのです。

そこで病気になれば又再び、喜べない心根は一掃され健康の実感を味わえる・・・と思うかもしれませんが、何度も何度も病気が続けば人間の心は段々弱り、疑念も増し、健康になっても「どうせまた病気になる」と、陰気な思考に支配されてしまういます。

そうなっても三つの理に心を合わせれば「陰気な思考」を「陽気な思考」に立て直すことも可能ですが、そうなる前に是非、自ら意識的に三つの理で喜びの心を鍛錬してください。

人間が意識してもしなくても「三つの理」に支配され、人間創造の川は流れ続けているのです。自ら「三つの理」の価値に気が付き、「三つの理」で魂に目覚めた状態で喜びの心を鍛錬するなら、人間創造の本流に乗ったも同じことです。

それが最速で魂人間へと生まれ変わり喜びづくめの人生を謳歌する唯一の方法なです。

喜びの心が人間世界から病気を根絶するのです。

  

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

 

 

信仰で病気は治るのか?:病気の発生源(2)

f:id:Prince1999:20191023175749p:plain

病気の発生源

病気はどこから発生するのでしょうか? 

「神の思想」は形に現われたもの全を「心通りの守護」と定義しています。形に現われたもの。病気も形の一つなら、病気も心通りに守護いただいた結果と言えます。

つまり病気も神様の守護なのです。

心通りの守護なら原因は人間自身の心にありますが、一体どんな心を使ったら病気になるのでしょう?

病気には様々な種類があります。軽い風邪から、癌、皮膚病、内臓疾患、神経疾患、精神疾患に至るまで多種多様です。病気が多種多様あるように、病気の元になる心使いも多種多様に分類されるのでしょうか?

 

  • 風邪には風邪の心使い
  • 癌には癌の心使い
  • 皮膚病には皮膚病の心使い
  • 内臓疾患には内臓疾患の心使い
  • 神経疾患には神経疾患の心使い
  • 精神疾患には精神疾患の心使い

 

このように細かく分類されるのでしょうか?

神の思想から導き出される答えは非常にシンプルです。

病気は「喜べない心」が原因なのです。喜べない心が様々な病気を引き起こしているのです。人それぞれに様々な「喜べない理由」があると思いますが、その心を突き詰めると「自分の思い通りにならない形」に集約されます。

あれ?ちょっと待ってください。「自分の思い通りにならない形」の中に「病気」も入っていませんか?

「病気」の原因が「喜べない心」なのに、「喜べない心」の原因が「病気」だとしたら無限ループです。鶏が先か?卵が先か?

その問いは取りあえず置いておいて、「喜びの心」を使い続けれることが「病気」を防ぐ最高の予防策と言えます。しかし、ここで一つ問題が発生します。

「→ 病気 → 喜べない心 → 病気 → 喜べない心 →・・・」

 

この無限ループを絶ち切るには、どこかで喜びの心を入れ込む必要があります。

「→ 病気 → 喜べない心 → 病気 → 喜びの心 → 健康 → 喜びの心 → 健康 →・・・」

 

果して病気の最中に喜こぶことが可能でしょうか?

 

喜びの心が病気を防ぐ

病気になって喜ぶ人はいません。

病気になって家族から優しくされる姉を見て、妹が「わたしも病気になりたい!」と思ったとしても、実際に病気になったら一刻も早く病気が治って欲しい、一日も早く元気になりたいと願うはずです。それほど病気は辛く恐ろしいもの。

人類の歴史に「病気になって喜ぶ発想」はありません。

しかし三つの理に従えば、病気を喜ぶことで病気を防ぐことができるのです。

病気は形です。

形は思い通りには成りませんが、心通りに守護いただけるのです。

病気を喜ぶこと。

これは人類史にとって非常に重要かつ価値のある試みと言えます。

病気の根本原因である「喜べない心」を根絶やしにすれば、この世から全ての病気が根絶されるのです。

   

喜びの心は一朝一夕には造られない

 ほとんどの病気が長い期間をかけて発症に至る「生活習慣病」と言われています。

その人の心模様が生活習慣に反映されているのです。つまり習慣的に喜べない心が癖として根付いた結果と言えます。

形として現われた病気は一朝一夕で発症したわけではないのです。

「喜べない心」と「病気」の因果関係も一朝一夕に結ばれるわけではありません。「あの時に喜べなかったから病気になった」というような単純な関係ではありません。

日々「喜べない心」の蓄積が病気という形で現われるのです。 

また、 風邪には風邪の喜べない心、癌には癌の喜べない心・・・。このように個別の分類もありません。そもそも神の思想に病気という概念はないのです。

体の不調や異変に、癌、糖尿病、精神病・・・等、カテゴリを分けて名前を付けたのは人間です。誤解を恐れずに言ってしまえば、病院に行くから、癌、糖尿病、精神病・・・等、病気になるのです。病院に行かなければ、ただの「心通りの守護」です。

心通りの守護を思考の土台に据えれば、癌、糖尿病、精神病・・・等、様々な形があったとしても、対応するのは自分の心ただ一つなのです。

形を動かそうと思えば困難に直面します。病気を治したい、癌を取り除きたい、とても困難ですよね。困難だからこそ悩み苦しむのです。困難なことに心を使えば悩み苦しむのは当然です。

形を動かそうと思わず、理を動かすのです。心通りの守護に合わせて自分自身の心を喜びに変えることで、理を動かすのです。

病気だから喜べない?いえ、心は完全に自由です。心を変えることは誰でも簡単にできるのです・・・と言いたいところですが、現実には心を変えることは大変な努力が必要です。病気が長い期間かけて症状に現われると同時に、心も長い期間かけて癖として根付いてしまいます。

実際、わたしも始めの頃は、病気の時に喜ぶことはできませんでした。喜ぼう喜ぼうとしても痛みや苦しみに負けてしまい、三つの理を思考するどころか、思考自体ままならぬ状態でした。わたしの場合は主に頭痛、腹痛、歯痛などの症状でしたが、激しい痛みの中で喜ぶことは不可能に思えました。

しかし今振り返れば、喜べないのは当然です。ペーパードライバーがいきなりF1に乗るようなもので、まともに運転できるはずがありません。

病気を喜ぶ。激しい痛みの中で心通りの守護を喜ぶ。これは超難関です。毎日の鍛錬があってこそ到達できる達人の境地です。

 

喜びの心を鍛錬する方法

 鍛錬、達人と聞くと、なにか厳しい修行を連想するかもしれませんが、喜びの心を鍛えるために特別な修行は必要ありません。

喜べないことを無理に喜ぼうとするのではなく、喜べることを喜ぶのです。

病気は喜べなくても、健康は喜べますよね。

健康を喜ぶことは誰でも簡単にできます。こんなことで本当に喜びの心が鍛えられるのか?と疑問に思うかもしれません。でも一日を振り返って少し考えてみてください。一日の内でどれだけ健康を喜びましたか?この一ヶ月の間でもいいです。何回健康を喜びましたか?一年では?

おそらく一年単位で振り返っても、健康を喜ぶことは数回あるか?ないか?ではないでしょうか?

健康を喜ぶことは簡単ですが、健康に喜びを感じることは案外難しいのです。なぜなら多くの人にとって健康は当たり前なのです。当たり前のことは喜びの対象にはならないのです。

そこで意識改革が必要になります。

当たり前のことを、当たり前じゃ無い、特別なものに感じるための意識改革。三つの理を用いて魂の感受性を目覚めさせるのです。

 

  1. 有形は借りもの
  2. 心通りの守護
  3. 人間の心は自由

 

三つの理を思考し理解した時、魂の感受性は目覚め、無形に喜びを感じ始めるのです。

 

  • 健康の中にある無形。
  • 健康の中にある当たり前じゃない人体の神秘。
  • 健康の中にある有り難い神様の守護。

 

何かをする時、何か行動に移す時、必ず三つの理を思考して喜ぶことで、無形に通じる魂の感受性を鍛錬するのです。

小さいことでも、喜べるところから鍛錬すれば、いざ病気という時に必ず大きな力を発揮し、不可能を可能にしてくれるでしょう。

コツコツと毎日続ける鍛錬が、いつの間にか病気すら喜べる魂人間を育て上げるのです。

  

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

 

 

信仰で病気は治るのか?:はじめに(1)

f:id:Prince1999:20191023175749p:plain

はじめに

「信仰で病気は治るのか?」

これは信仰している人も、無信仰の人も一番関心があるテーマだと思います。

信仰で癌、皮膚病、内臓疾患、神経疾患、精神疾患などの病気が治るなら病院はもぬけの殻になるでしょう。痛い注射や恐い手術を受けるより、祈りで病気が完治するなら間違いなく世界中が信仰者で溢れ返ります。

しかし現実を見れば病院は何処も満員御礼、診療を受けるまで何時間も待たされるほど支持と信頼を得ています。病院では完治できず助からない病気も沢山ありますが、それでも殆どの人は病院に救いを求めます。

現在医療も様々な問題を抱え万全とは言えませんが、それでも一般患者の心の拠り所は病院と言って差し支えありません。

病院が支持と信頼を得ている理由は、徹底した科学技術とデータに基づいて病気を数値化、可視化し、不安な患者に対して一定の安心感を与えることが可能な点ではないでしょうか?

発熱や咳きが出る患者に対して、医者は科学技術とデータを元に診断を行い、問題が無ければ最適な薬を調合し、「お大事に!」と笑顔で見送り、安心感を与えることができるのです。

しかし現在医学では治せない患者に対しては、残りの命も科学技術とデータによって数値化、可視化され、無慈悲に余命の宣告が行われるのです。

 

一方で、現在医学で完治の見込みがない患者に対して救いの手を差し伸べるのが宗教の特色です。はたして、病院で治せない病気を信仰が治せるのでしょうか?

 

病院で治せない病気を信仰が治せるのか?

病院に見放された患者は「藁にも縋る思い」で宗教の扉を叩くのではないでしょうか?

わたしの唯一知っている宗教(祖父が天理教教会長)でも、産後の肥立ちを助けたり、医者に見放された命を救ったり、見えない目を開かせたり、常識では考えられない不思議奇跡によって信者が増え、勢力を拡大した歴史が事実として存在します。

しかし年々信者数が減少し強勢が衰退している現状から鑑みて、不思議奇跡は遠い過去の逸話と言って過言ではありません。SNSが普及した昨今に不思議奇跡が現われたら忽ち話題になり、教団の強勢が拡大することがあっても減少するなど考えられません。

それは他の宗教でも似たり寄ったりの状況ではないでしょうか?

祈りで難病を克服するなど、様々な宗教での体験談は枚挙にいとまがありませんが、もし不思議奇跡が日常茶飯事でバンバン病気が治っているなら、どんどん人が集まり世界のスタンダード宗教として確立しているはずです。

しかし現実に「病気平癒」を謳った宗教が数多く存在します。神社をパワースポット化して「必ず奇跡は起こる」と大判風呂敷を広げているところもあります。でも必ず奇跡が起き、不治の病が100%治るのなら、それこそ世界的に注目を集め、世界中から参拝者が押し寄せるはずです。実際に参拝や祈祷で助かった方もいるでしょうが、その反面、助からなかった方も数多く存在するはずです。どうしても誇大広告感は否めません。

 

それと一般的感覚ではどうしても理解を共有できないのが賽銭です。

「神仏にお供え」という名目で金銭を要求することです。

病院なら高価な医療機材を導入しているので治療にもお金が掛かるのは理解できます。しかし祈りにどうしてお金が必要なのでしょうか?宗教団体を運営する上で経費が必要です。宗教家自身にお金が必要な事情は理解できます。しかし、それと、これとは別な話です。もし賽銭の目的が必要経費なら「神仏にお供え」などと謳わずに、経費の明細を公開して会費として徴収すべきです。

だって病気を治すのは不思議奇跡を司る神仏のはず。不思議奇跡を起こせるほどの神仏が人間から金銭を要求するのは到底理解できません。

神仏はお金が大好きなのでしょうか?神仏とは欲まみれな存在なのでしょうか?

金銭をお供えしたら病気が平癒した体験談はよく耳にしますが、それが事実であったとしても、なぜお金をお供えしたら病気が治るのか?お金と神仏と病気は如何なる法則で結びついているのか?

その点を明確にし、一般的感覚にも納得できる法則なり道理を示し、その通りにすれば必ず病気が治るなら、誰もが喜んで金銭を支払うでしょう。

要するにお金を支払う価値があれば、病院でも宗教でも喜んで金銭を支払います。本当に価値あるものは過剰に宣伝しなくても人が集まるものです。

しかし実際には価値のないものを、人の弱みや苦しみにつけ込み、まるで脅迫紛いの論調で購入させる・・・そんな似非宗教が蔓延っているのも事実です。それが余計に宗教への反感を募らせる要因にもなっています。

SNSの普及で元信者による悲惨な宗教体験が拡散され宗教の風当たりは強まる一方。

  

本当に信仰で病気は治るのでしょうか? 

 

 

神の思想は病気を根絶する

そもそもなぜ人間の力では治せない病気が存在するかと言えば、人間という存在自体が不思議奇跡で成り立っているからなのです。

命はどこから生まれ、どこへ消えていくのでしょうか?殆ど「無の状態」から37兆個もの細胞に分裂し一人の人間を存立させるメカニズムは人知を超越しています。

そして存在する理由も意味も知らないまま、命ある限り喜びを求めて彷徨い続ける人間。間違いなく人間以外の意志と力で存在しているのに、それを感じさせない不思議な存在。

この人間という不思議奇跡を解明しない限り、これからも似非宗教は我が物顔で蔓延り続けます。なぜなら神の啓示を偽る者がいても、嘘か?誠か?誰も裏を取ることができないからです。

病院も同じです。病院も日夜、人体という不思議奇跡と格闘しているのです。絶対に勝てるはずのない挑戦ですが、科学と統計データの蓄積が僅かながら不思議奇跡の中に一定の法則性を発見し、病気の治療に成果をあげています。

ただ人体は何度も言うように不思議奇跡の塊。人間の手に負えない難病奇病は後を絶ちません。こちらも不思議奇跡が解明されない限り、今後、患者が増えることがあっても減ることはないでしょう。益々病院は大儲け・・・と言いたいところですが、患者の数に医師が足りず、その裏で医師の疲労、医療ミス、訴訟などの問題は山積して解決の糸口さえ見つからないのが実情です。

人間存在という不思議奇跡の解明

これに明確な答えを出せるのは、不思議奇跡の支配者である人間創造の神以外に有り得ません

人間の創造主たる神が現われて人間の真実を説いたなら、不思議奇跡は人間の知るところとなり、似非宗教はおろか、その他の宗教も駆逐され、病院もその役割を終えるでしょう。

神の思想が病気を根絶するのです。

 

 連載:信仰で病気が治るのか?では、神の思想を元に不思議奇跡の根幹に迫り、信仰で病気が治る真相を究明したいと思います。 

 


 

ここでは宗教と一括りにして論じていますので「うちの宗教は違う」と反論がある方は申し訳ありませんが、この記事に返信をして詳細を教えてください。(内容によっては謝罪させていただきます。)

また、信仰で病気が治る不思議奇跡を体験をされた方も、返信をして詳細を教えてくだれば幸いであります。

 


 

 

tamashi-ningen.hatenablog.com