「心通りの守護」と「守護通りの心」
この人間世界は心通りの守護で成り立っています。
心通りの守護が無ければ、人間がどんなに心を使っても形は1ミリも動きません。心臓も動かないし見ることも聞くことも話すこともできません。
心通りの守護のお陰で、心が成就する喜びを味わうことができるのです。
- 水の飲みたい(思い)
- 水を飲む(心)
- 飲めた(心通りの守護)
- 嬉しい!(心の成就)
一方「守護通りの心」とは「心通りの守護」を知らない人間が使う心を指します。
それは形を見て思考する従来通りの思考方法です。
形を見て心を決めるので、形通りの心が形成されてしまうのです。
- 思い通りの形を見て喜ぶ心。
- 思いと違う形を見て喜べない心。
目の前の形に左右される心に自由意志はありません。形の指図通りに運命に翻弄され続ける主体無き心なのです。
しかし形とは「心通りの守護」です。運命に翻弄されるということは、過去の自分(心)に翻弄されているのです。
例えば、身に覚えのないことで他人から罵られたとします。「守護通りの心」なら反射的に怒り心頭に発して罵り返すのが関の山ですが、形に現われたら心通りの守護なのです。過去に自分も同じように他人を罵っていたのかもしれません。全く身に覚えが無くても理は絶対、理に間違いはないのです。
魂人間は、身に覚えが有っても無くても、思考の土台にしているのは心通りの守護であり、罵られた形(実り)を心通りの守護と喜んで収穫し、新たな運命に喜びの種を蒔くことで次も収穫時も豊かな実りを確約できるのです。
これは形の如何に捕らわれず、常に主体的な喜びを生み出す魂の思考方法なのです。魂人間は常に心通りの守護を喜びながら、喜びの未来を創造することができるのです。
人間は運命の創造者、人間の心一つが運命を左右する。心自由の理
人間の心は完全に自由。これは魂に備わった性質なのです。
人間の心は完全に自由
心の自由は神様にさえ邪魔することはできません。心の中は完全に自由でです。王様やスターにも成れるし、過去を懐かしみ未来を夢想し、遠い土地を旅することもできる。心の中では不可能やタブーは無い。銀行強盗や殺人を犯しても警察は捕まえに来ない。心の中は完全に自由。心自由は神様によって完全に守られているのです。
しかし心は使わなければ形になりません。いくら心の中で王様に成ってもご馳走は食べられないし、海外旅行へ出掛けてもお土産一つ買えません。心の中で思っているだけでは永遠に形にはなりません。心は使ってこそ神様にお受け取りいただく理の種となるのです。理とは心通りの守護。心を使うから心通りに形を御守護いただき心通りの喜びを味わうことができるのです。
心中で思っているだけと言っても、思っているだけでも形になる場合もあります。
無自覚に創造される運命
例えば憎い相手がいたとします。その憎い相手を憎しみの余り心の中で殺害したとします。勿論、実際には殺害していないので問題にはなりませんが、心の中で殺害したとしても顔の表情や血圧に変化はないでしょうか?おそらく本人が気が付いていないだけで、恐ろしい表情をしているに違いありません。血圧も上昇していることでしょう。体に反応が現われたということは、心模様が形に成って現われたということ。つまり心通りの守護です。実際に殺害はしていないので逮捕はされませんが、憎しみの心はしっかりと受け取られているのです。その心が生み出す「喜べない種」は必ず「喜べない実り」となって自分の前に現われます。このように、自覚的でも無自覚でも、人間は知らず知らずに運命を創造しているのです。
そして大抵の場合、人間は無自覚に心を使っています。習慣的に身に付いた心のまま、運命を創造しているのです。これは大変恐ろしいことです。怒りっぽい性質の心なら、常に他人に嫌な思いをさせる種を蒔いているのです。他人に嫌な思いをさせた分、今度は自分に嫌な思いが返ってくる負の連鎖。
でも心配する必要はありません。
もし怒りっぽい性質の心なら、今、この瞬間から怒りを鎮め、思いやりのある優しい心に生まれ変えれば問題は解決するのです。たったそれだけで運命ががらりと変わるのです。
しかし実際は「習慣的に身に付いた心」を変えることは大変難しいのです。もう心の癖になっているので、つい反射的に癖の心を使ってしまうのです。癖の心に打ち勝つには一体どうしたらいいのでしょうか?
癖の心に打ち勝つ三つの理
普段から無自覚に使い続けて身に付いた癖の心。
この癖の心に打ち勝つには自覚的に喜びの心を使い続けるしかありません。ただ水を飲む行為一つでも自覚的に喜びの心を使う癖を付けるのです。
それは三つの理を通して、水を飲む行為を魂の視点から俯瞰するのです。三つの理が働かなければ「水を飲む」ことはできません。
- 有形は借りもの(体、水、コップ)
- 心通りの守護(体が動き水が飲める)
- 人間の心は自由(水を飲みたい)
三つの理で水を飲む行為が完結しますが、忘れてはならないのは神様の心です。
「人間の喜びを見て共に楽しみたい」。神様の心が根底にあってこそ働く三つの理なのです。神様の守護あってこそ水が飲めるのです。
つまり心通りに水が飲めたら、心通りの守護を神様に感謝して、神様が定めた三つの理に守られている喜びを感じてください。
日々、当たり前にできていると思っていた行為に対して、一つ一つ自覚的に喜びの心を使うことで、いつの間にか「喜べない癖」は消えてしまいます。
自覚的に喜びの心を使うことで癖に打ち勝つだけではなく、同時に喜びの運命も自覚的に創造していることになるのです。一石二鳥とは正にこのこと。
喜びの心が運命を切り開く
あなたは怒りっぽい性質ですか?根に持つ性質ですか?見栄っ張りな性質ですか?自分のことを第一に考える性質ですか?
どんな心の性質だったとしても、肝心なのは「心に喜びがあるか?ないか?」。たったそれだけが運命を分けるのです。
喜びの未来を望むなら喜びの心、喜べない未来を望むなら喜べない心(そんな人が居るとは思いませんが)を日々の心使いにすれば、その心通りの未来を御守護いただけるのです。
サッカー選手になりたい、医師になりたい、看護師になりたい、ユーチューバーになりたい・・・などの個別の目標は、それぞれの道を極めて行くしかありません。サッカーにはサッカーの道理があり、医師には医師の道理があるのです。しかし道を追い求めて行く過程で生み出す心が「喜び」でなければ、運命の天秤を「喜び」に傾かせることは難しいと言わざるを得ません。
一つの道を真剣に追い求めて行けば必ず壁にぶち当たります。これ以上先へ進むことが難しい壁。この壁を困難と見るか?守護と見るか?この二択で運命は天地ほども差が生じます。
壁を困難と見れば壁を越えるまで喜びはありません。しかし壁を守護と見れば既に喜びを感じているのです。既に喜びの種を蒔いているのだから、喜びの実り(新しい発想)もいただけるのです。
壁に恐れ戦き喜べない種を蒔き続ければ、やがて壁自体に心を押し潰されてしまいます。
そもそも、自分の行く手を邪魔する壁は、一体何処から現われるのでしょうか?神様はそんなに人間の思いを邪魔したいのでしょうか?勿論、神様が人間の邪魔をする気は毛頭ありません。神様は「人間の喜びを見て共に楽しみたい」一筋の心です。
壁は心通りの守護。
壁に行く手を阻まれるということは、この先を進む理が無いということ。
例えば、100メートル世界記録9.58秒を超えられない壁が有るとするなら、9.57秒に突入する理が無いのです。
理が無ければ理を造るしかありません。
理とは喜びの心。これ以上進めない壁を前に、如何にして喜びの心を造ればいいのでしょうか?
一口に喜びと言っても様々な喜び方があります。お酒を飲む喜びもあれば、ゲームをする喜びもあります。例え喜びだからと言って、お酒やゲームで世界新記録が出せるはずもありません。
「壁を打ち破れるほどの喜び」とは一体どんな喜びなのでしょうか?
「壁を打ち破れるほどの喜び」。それは「心通りの守護を感じる喜び」です。心通りの守護を感じることが人間にとって最上級の喜びなのです。
今有る形に心通りの守護を感じる・・・つまり、壁を破り新記録を出せたら神様の守護・・・ではなく、壁自体も神様の守護なのです。
全ての有形をお借りし、心通りの守護をいただいた現状こそが、最上級の喜びなのです。
それ以上を求めることは欲でしかないのです。欲の心には理がありません。壁を乗り越え先へ進む理が無いのです。
今の現状、心通りの守護をいただいている現状を満足して喜ぶことで理が造られる。
心通りの守護を喜ぶ心は、自覚的に喜びの運命を創造しているのです。
まとめ
自覚的でも無自覚でも、心一つで運命が創造されるなら、自覚的に喜びの運命を創造したいものです。
人間は運命の創造者。人間の心一つで運命は変わるのです。
人間の体が思い通りに動く理由。心通りの理
人間の体は神様からお借りしているもの。人間のものではありません。借りているからと言って自由に使うことはできません。
それでは人間の体は何故思い通りに動くのでしょうか?
人間に許された理と許されない理
大抵の人間は、体は「思い通り」に動くと信じています。「水を飲みたい」「トイレに行きたい」と思えば体は思い通りに動きます。間違っても水を飲みたいのにトイレに行くことはありません。体が思い通りに動くのだから当然ですが、全て思い通りに動くわけではありません。
思い通りに体が動くと言っても極めて限定的です。
- 鳥のように飛びたいと思っても飛べない。
- 100メートル5秒で走りたいと思っても走れない。
- 魚のように自由に泳ぎたいと思っても泳げない。
- 寿司千貫食べたいと思っても食べられない。
- 永遠に生きたいと思っても生きられない。
など・・・
反面、日常生活において大抵のことは不自由無く思い通りに動きます。
- 顔を洗う
- 服を着替える
- 食事する
- 家事をする
- 勉強や仕事をする
など・・・
思い通りになる部分とならない部分、この違いはどこから生まれるのでしょうか?
更に、思い通りになる部分においても、得手不得手があります。100メートルを10秒で走れる人もいれば15秒が精一杯の人もいます。この違いもどこから生まれるのでしょうか?
その答えは「理」が有るか?無いか?の違いなのです。
理が無い
- 鳥のように飛ぶ理がない。
- 100メートル5秒で走る理がない。
- 魚のように自由に泳ぐ理がない。
- 寿司千貫食る理がない。
- 永遠に生きる理がない。
など・・・これらは神様に許されていないこと
理が有る
- 顔を洗う理がある
- 服を着替える理がある
- 食事する理がある
- 家事をする理がある
- 勉強や仕事をする理がある
など・・・これらは神様に許されたこと。
有形には限界が定められています。
鳥のようも飛びたいと思っても人体は飛行に適した構造をしていません。100メートル9秒台が最速だし、魚のようにえら呼吸もできないし、胃袋の大きさにも限界があります。命あるもの形あるもの必ず死を迎え朽ち果てます。
理が有る無いの違いは、神様が決めたことなので人間は文句を言えません。(文句は言えますが言ったところで理は変わりません。)
しかし、ここで一つ疑問が生まれます。思い通りになる中で得手不得手で差が生じますが、これも「理が無い・理が有る」の違いなのでしょうか?
厳密に言えば「理が無い・理が有る」の違いですが、この場合の理は人間が使う「心の理」です。得手不得手の差は、人間の心に「理が有るか?無いか?」の違いで生じるのです。
神様は有形に限界を定めましたが、人間の「心の理」が有形の限界に無限の可能性を広げることができる・・・これが心通りの守護なのです。
解りやすく説明すれば、人間は鳥のように空を飛ぶ理が無りません。しかし、心を使い、心通りの守護をいただくことで飛行機を製造し空を飛べたのです。
決して人間独自の力で飛行機を製造したのではありません。
飛行機の元になるアイデア、素材は全て有形の中にあったのです。神様が創造した地球という有形の中にジェットエンジンの素材、燃料、鉄の塊が空を飛ぶ航空力学も、全ては人間の心通りに守護いただいた神様の創造物なのです。どんな優秀な人間でもゼロから有形を創造することはできません。元々存在する有形を発見し、許された理の範囲で発明、開発し、心通りの守護をいただいた結果の「思い通りの喜び」なのです。
全ては「心通りの守護」なのです。
「思い通り」と「心通り」の違い
「思い通り」ではありません。「心通り」なのです。この二つは厳密に異なります。
前者は文字通り「思い」であり「水を飲みたいな・・・飲みたいなあ・・・」という未だ定まっていない意識。
後者は「水を飲む」という定まった意識、又は行動に移す動機となる意識。
簡単に説明すると、億万長者に成りたい「思い」があるとします。しかし、思いだけ大きく立派でも一日中働きもせず家でゴロゴロして、億万長者に成る「心(一生懸命勉強し働くなど)」がなければ、神様も受け取りようがありません。心とは有形に現われて始めて「心」と言えるのです。有形に現われなければ「思い」のまま、ただ思っているだけでは無駄に時が過ぎてしまいます。
そもそも有形は「思い通り」になりません。「思い通り」になっているように見えて実は「心通り」にしかならないのです。
もし「人生は思い通りにならない。」と考えるなら、自分の「思い」と実際に使っている「心」に乖離があるのです。「こんなに頑張っているのに何故結果がでないのだ?」とお嘆きなら、それは頑張る方向が間違っているのです。なかなか思い通りにならずイライラして他人に八つ当たりするなら、一旦今の思いは捨て去りましょう。
思いが強いのは結構なことですが、思いが強すぎると「強欲」となり物事に良い影響をあたえません。寧ろ事態を悪い方向へと進ませてしまいます。強欲は自分だけの喜び・成功を追い求めて他人のことなど眼中に入らない酷い心。心通りの守護が支配する世界で、いくら喜べない種を蒔いたところで喜べない実りしかありません。
神様に真っ先にお受け取りいただけるのは「人の喜びを見て共に楽しむ」優しい心。今使っている自分の心を「三つの理」に当て嵌めて顧みれば、自ずと「思い通りにならない」原因を悟ることができるでしょう。
喜んでいるか?喜んでいないか?今使っている心の正体が解れば、後は「三つの理」に従い心の向きを正すだけ。
「思いの実現」と言っても、結局、最終的に求めているのは喜びなのだから、今、喜べていない時点で、その思いは断たれているのです。
今の心に喜び無くして「思いの実現」は有り得ません。今の喜びだけが次の喜びに繋がり、喜びが繋がった先に「思いの実現」があるのです。つまり「思い通り」に成るのは「心通りの守護」の結果なのです。
まとめ
人間の体が思い通りに動く理由。答えは心通りの守護。
心通りの守護があるお陰で、人間の心は有形として成就し、心通りの喜びに与るのことができるのです。
人間の体は誰のもの?借りものの理
人間の体は誰のものでしょうか?
殆どの人間は「自分のもの」と信じて疑わないと思います。
しかし本当に「自分のもの」なのでしょうか?
「自分のもの」と言える根拠は何処にあるのでしょうか?
自分の体は自分のもの?その根拠は?
それでは「右手をご覧ください」。この場合の右手とは「右手側・右手方向」ではなく、本当に「右の手」を指しています。自分の右手をよく視てよく考えてください。
指、爪、皮膚、関節、血管、流れる血液・・・。どれか一つでも自分で創り上げたパーツはあるでしょうか?
別の言い方をします。
どれか一つでも人間が創り上げたパーツはあるでしょうか?生まれた時はベビーサイズだった手のひらを、子供サイズ、青年サイズ、大人サイズと段々に大きく成長させたのは、自分(人間)の力なのでしょうか?
勿論、右手だけではありません。目鼻耳口、身体全部、そして地球、太陽、宇宙・・・。この世に存在する全ての形は、人間の力で創り上げることは不可能なのです。
つまり、身体も含め、全ての有形は「自分のもの」ではなく「他人のもの」。
37兆個もの細胞で構成される不思議な体、衣食住、地球、太陽、宇宙・・・人間には絶対に創造できない有形は全て「神様」からお借りしているのです。
Q&Aで紐解く「借りものの体」
- Q1
- 体を借りた憶えはありませんが
- A1
- 貸し主である神様の一方的な思いで貸しているのです。
あなたの思いは関係ありません。
- Q2
- 一方的に貸して、それで喜べと言われても・・・
- A2
- 一方的と言っても貸すものの価値に寄りませんか?
もし一方的に借りたのが10億円として、その返済が「喜ぶ」だけだとしたら?
誰だって感謝こそすれ、迷惑に感じる人はいないと思いますよ。
人間の体は、一部分でも再生しようと思ったら莫大な費用が掛かります。
しかも人工的なものは不具合も多く、定期的なメンテナンスも必要です。
入れ歯一つとっても不便で面倒くさいものですよ。
- Q3
- なにか、もの凄く有り難い気持ちになってきました。
- A3
- そうです。人間一人の価値は計り知れないのです。
魂一つの人間が、身体を含め広大な宇宙まで借りているのですから。
- Q4
- 体だけ借りていると思っていました
- A4
- 体を維持するには衣食住が必要です。
地球、太陽、宇宙がなければ体も存在しませんから
この有形世界全てを纏めてお借りしているのです。
- Q5
- 体が自分と思っていました。
- A5
- 心だけが自分なのです。
それでは神様からお借りている体は、人間の自由に使うことができるのでしょうか?
借りた体は自由に使えるの?
結論から申し上げると、借りた体を自由に使うことはできません。人間がいくら心を使っても、体は1ミリも動かないのです。体はを含め、全ての有形は神様の創造物です。神様には、0(ゼロ)から1(イチ)、無から有を創造する不思議な能力がありますが、人間には有形を創造することも動かすことも不可能なのです。細かく言えば細胞一つ創造できない、心臓一つ動かせない・・・人間は有形に対して完全に無力であり、完全に不自由なのです。
でも自由に使えなくても全く問題ないのです。
何故なら、人間の心通りに神様が有形を動かしてくださるからです。これを心通りの守護と言います。
ただ心通りの守護は余りにも早業で、人間が自分の力で動かしているようにしか見えないのです。体が「自分のもの」と誤解してしまうほど、余りにも神様の守護が行き届き過ぎているのです。
もしトイレに行きたいと思ってから実際に体が動くまで5分も10分も掛かっていたら大変なことになりますよね。人間は体が動くのが当たり前と思っていますが、体が動くことはもの凄い不思議なことなのです。
全ては「人間の喜びを見て共に楽しみたい」という神の思想から成り立つ不思議なのです。神様は人間の喜びのために体(有形世界)を貸しているのです。これは神様の一方的な思いには違いありませんが、借りているものの価値、貸している存在の偉大さを知れば知るほど、喜びがマグマのように溢れてきます。
まとめ
体(有形)は人間の喜びのために神様からお借りしているもの。
有形は喜びの種を生み出す土台です。
この喜びの土台があってこそ、次の喜び、新たな喜びの次元へと切れ目無く繋がって行くのです。
宗教と恐怖信仰と魂人間
恐怖信仰とは「恐怖を信仰の対象」として崇め奉ることではありません。
恐怖信仰とは「恐怖が信仰の動機」になっていることを指します。
そもそも宗教の成り立ちは恐怖に起因していると言っても過言ではありません。不作、病、死など人間の力では為す術も無い事象に対する恐れ。人間の力を超える自然への崇拝、自然を司る神への祈り、あらゆる信仰心の根幹にあり、信仰を支え続けているのは紛れもなく未知への恐怖心なのです。
未知への恐怖心
人間は未知のものに恐れを抱きます。
人間にとって「未知のもの」とは何でしょうか?幽霊?宇宙人?UMA?それとも神様?これら未知なるものは存在として知られていますが、その実体は定かで無いもの。もしかしたら錯覚かもしれない。もしかしたら幻覚かもしれない。もしかしたら思い込みかもしれない。真実は誰かの作り話かもしれない。
「未知のもの」は善なのか?悪なのか?誰にも真相は解りませんが、解らないからこそ恐怖の対象になり得るのです。
しかし今一度よく考えてみてください。人間にとって最も未知なるものは何でしょうか?人間にとって一番身近な未知。こんなに身近にある不思議な存在。しかもちゃんと実体が確認できる存在。
そう人間自身です。
人間にとって人間自身が一番未知なるものなのです。「自分のことは自分が一番よく知っている」。この台詞は頻繁に耳にしますが、自分を知っているなら病気だって簡単に治せるはずです。いや、むしろ病気にさえ掛からないはずです。だって「自分を知っている」ということは、自分自身を完全に管理できるということです。人体のパーツ、細胞の一つ一つを自ら創造し、組み立て、心臓の動き、血液の流れ、栄養の吸収、食物の消化、排泄までコントロールしてこそ、「自分のことは自分が一番よく知っている」と言えるはずです。
でも実際は髪の毛一本創造することができず、熱が上がれば体温1度下げることもできないのです。自分の意志で生まれたわけでも無く、永遠に生きたいと願っても寿命が有り、何時死ぬかも解らない。37兆個もの細胞で構成された人体も、単体では生命を維持することは不可能であり、水、空気、食物、地球、太陽、宇宙全体がセットになって人体を成り立たせ生命を維持しているのです。
考えれば考えるほど人間とは未知なる存在。不思議の塊が人間なのです。
人間自身が未知の上に成り立っているのだから、未知への恐怖が常に付きまとうのは当然なのです。
この未知への恐怖から逃れる術があるとしたら、自分自身の真実を知り「未知」を「既知」に変えること。
自分自身の真実を知るには、人間創造の主、神様に教えていただく他ありません。自分自身の真実を知って、はじめて恐怖から逃れることができるのです。
それが宗教の役割であり、多くの人々が宗教を求める理由なのです。
恐怖を利用する宗教
しかし中には恐怖を利用して利益を得る似非宗教も蔓延っています。人間の未知への恐怖につけ込み、献金という名目で財産を巻き上げ、上層部だけが貴族のように贅沢な生活を送る・・・そんな酷い話もよく耳にします。
恐怖心を克服してくれるのが宗教の役割なのに、逆に恐怖心を煽ることで組織に従属させ、組織を存続させるための資金源として縛り付けるのです。組織が大きくなれば維持費が必要になるのも理解できますが、人助けが目的のはずの宗教が、いつの間にか人集め、金集めが目的になり、献金につぐ献金で末端信者を苦しめるなら本末転倒も甚だしいと言わざるを得ません。
宗教に入信する動機は、親からの信仰を除いて、病の恐怖、生存の恐怖からの救いが殆どだと思います。苦しい時の神頼み。溺れる者は藁をもつかむ。そんな人の弱みにつけ込んみ暴利をむさぼる似非宗教を見分ける簡単な方法があります。
「金銭を要求する」。
金銭を要求するなら似非宗教と思ってください。神様は金銭を要求しません。これは当たり前ですよね。お金が必要なのは人間の都合です。お金を出さなければ病気になる、不幸になる、命がなくなる・・・なんてことを神の思想にはありません。
しかし希に金銭をお供えしたら病や問題が治まった事例も存在します。
誤解しないでいただきたいのですが、これは神様が金銭を受け取ったから病や問題が治まるわけではないのです。金銭とは生きるために大切なものです。その大切なものを他人のために使うことは決して悪いことではありません。他人の喜びのためにと、本人も喜んでお金を払うなら、神様はその「人の喜びを我が喜びにする」優しい心をお受け取りくださるのです。もしお金を受け取る側が欲の心で受け取ったとしても腹を立てる必要はありません。腹を立てれば立てた分、自分に返ってくるだけです。欲の心で受け取れば、その欲の心が返り、後々困るのは本人自身なのです。
何故、欲の心は後々困ることになるのでしょうか?
欲の心とは必要以上に求める心。現状に満足できず目の前の御守護を喜べない心。そして他人が苦しんでも、自分さえ良ければと思う身勝手で酷い心なのです。欲の強い人は一生懸命に喜べない種を蒔き続けているのです。喜べない種はどんなに蒔いたところで喜べない実りしかありません。
少し話が脱線しましたが、宗教の成り立ちが恐怖に起因している構造上、このような問題は後をたちません。その原因は世に数多ある宗教にも問題があるのです。本当に恐怖を克服し、人を救い、世界に安寧をもたらす宗教が存在するなら、似非宗教が蔓延る余地などないのです。
では神の思想は恐怖を克服してくれるのでしょうか?
恐怖を克服する神の思想
人間が恐怖を克服するためには何が必要でしょうか?
先ず、第一に「死の克服」
人間に必ず訪れる死。死の恐怖、存在が消滅する恐怖。
そして、第二に「運命の克服」
一寸先は暗闇世界。人間は一秒後に何が起こるか知るよしもありません。
最後、第三に「生の克服」
生、命の誕生は奇跡と感動に包まれ祝福と喜びに満ちています。生は克服する類いのものでは無いと思うかもしれませんが、生の意味を知り、生の成り立ちを知ることで、未知の恐怖を克服することができるのです。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」。未知のものでも既知になれば恐くないのです。
神の思想は人間の未知を既知にして、安心と安全、永遠の喜びを与えてくださるのです。
Q1.「死の克服」
A1.神の思想:人間は魂一つの存在であり永遠に生き続ける。肉体の死はお借りした体を神様にお返しして新たな生へ向けて出直すこと。魂には前世の全ての心使いが記録られているので、来世でも前世で培った心を引き継ぐことができるのです。例えば、人のために優しく尽くした前世があるなら、来世では何故か人に優しく尽くされる人生を送る・・・など。だから最後の最後まで「人の喜びを思う優しい心」を持ち続けてください。人間はこうして生まれ変わり出直しを繰り返し、厳然たる借りものである有形の守護を実感しながら、魂の道、喜びづくめの人生を歩ませていただけるのです。
Q2.「運命の克服」
A2.神の思想:運命は心通りの守護によって左右されます。つまり運命を決めるのは偶然でも神様でもなく人間自身の心なのです。例え自分にとって不都合な宿命だとしても、それは自身の心が蒔いた心の種が実った結果なので、自分自身で収穫しなければなりません。収穫しなければ実(不都合)は何時までたっても実った(不都合)まま。実りを「こんな実などいらない」と喜べないなら、何時までたっても収穫はできません。何故なら心通りの守護とは人間が喜ぶための仕組みなのです。人間が心通りと喜ばなければ実りは収穫できないのです。実りを心通りの守護と喜べない人は、喜べない傍から喜べない種を蒔いているのです。心通りの守護の意味をしっかりと理解すれば、どんな実りでも必ず喜べるし、必ず運命を喜びへと変えることができるのです。
Q3.「生の克服」
A3.神の思想:人間は何故生まれるのでしょうか?何処から生まれるのでしょうか?一体何の為に人間として存在しているのでしょうか?人間は神様の意志で創造されたのです。神様の一方的な思いで創造されたのです。神様の一方的な思いですから、創造された人間は神様に文句を言ってもいいのです。しかし神様に創造された自分自身を振り返った時、神様に感謝をしても文句を言う筋合いなど一つもありません。それだけ有り難い有り難い有形をお借りしているのです。その上、人間は心を使うだけで心通りの守護という喜びをいただけるのです。今は未だ三つの理に定まらないために不満や不安があるかもしれませんが、心が三つの理に定まり自身の魂に目覚めた時、生み出す心の種と心通りの守護は喜びばかりになり、人間は喜びの化身となるのです。
そう神様が待ち望んだ魂人間になるのです。
まとめ
神様は恐怖の対象ではありません。徹頭徹尾、人間の喜びだけを楽しみに全知全能の力を行使してくださる有り難い存在なのです。
ただ、いくら頭の中で考えたところで、なかなか恐怖心から抜け出せるものではありません。日々の生活の中で自身の心を三つの理に当て嵌めて、神の思想を意識しながら心を使い続けるのです。意識して心を使い続ければ、三つの理の働きが段々感じられるようになります。この理を感じること。即ち守護を実感することが要なのです。
神様の守護をリアルに実感する心には、恐怖を感じる余地など微塵もないのです。
人間心と魂人間
魂人間に人間心はありません。
魂人間にあるのは三つの理を定めた神の思想です。
もし何か問題に遭遇して、心配したり、不足心したりと、心がざわつくなら、それは人間心です。
人間心とは魂と真逆の概念。
人間心の思考方法
人間心とは、神を知らず、神の思想を知らず、三つの理を知らず、人間が形を動かせると信じ、結果を見るまで善悪の判断ができない一寸先は暗闇手探りの思考方法。一言で表わすと「喜べない思考方法」です。
神様を知らないと言うことは致命的です。神様を知らなければ、自分の身は自分で守るしかありません。勿論、神様を知っても知らなくても同様に守護はいただけますが、神様を知らなければ守護の意味も解らず、物事を自分の経験と知識で判断する他ありません。
人間心にとって、有形を守ることが自分を守ることなのです。
そのため財産を蓄え我が身を守ることに一生懸命になるのです。潤沢な財産があれば、もし病気に掛かっても高度な医療も受けられます。衣食住も最高レベルを確保することができます。子供にも最高の教育を与え、様々な将来の不安に備えることが可能です。
しかし有形は常に変転し固定されることはありません。人間の心通りに自由自在に姿形を変えるのです。
- 一流企業に就職してたら会社が問題を起こし倒産した。
- 財産があっても不治の病で寝たきりになり何の楽しみもない。
- 子供を有名大学に進学させたが天狗になり不祥事で人生を棒にする。
人生とは人間の計画通り、思い通りには成らないもの。人生が思い通りに成らないということは、有形が思い通りに成らないということなのです。
そして、この有形が思い通りに成ると信じているのが人間心なのです。
有形が思い通りに成ると信じている人間心
人生が人間の思い通りに成らないのは、なにも不幸な面ばかりではありません。
- 三流企業に就職したが思わぬ発明で世界有数の企業に成長する。
- 財産がなくても家族が健康で優しく常に笑いが絶えない。
- 子供は勉強をせず自分の道を進み大きな夢を叶えた。
これらは思わぬ喜び。これは「棚からぼた餅」という訳では有りません。人生が思い通りに成らないのは当然なのです。何故なら、思い通りではなく、心通りに成るのが人生なのです。
しかし一つだけ、思い通りに成ることがあります。
人間の心の中。心の中は自由自在、思い通りに思いを描くことができます。その思い通りの有形が実現するには、その思いに相応しい心の理(実際に使う心)が必要になるのです。つまり心通りの守護を頂いた時に、「思い」と「心の理」が等しければ「思い通り」と感じることができるのです。
日々の生活の中で思い通りと感じられることは多々あります。
- 歯を磨きうがいをする。
- 水を飲みご飯を食べる。
- 服に着替え学校や会社に出掛ける。
- 読書や音楽鑑賞に興じる。
- 布団に入り休む。
これら日常の行動は「思い」と「心の理」が等しいから「思い通り」に感じられるのです。この「思い」を叶えるのに特別な「心の理」は必要ないからです。
しかし大きな夢、実現困難な目標の場合はどうでしょうか?
大きな夢、実現困難な目標を思い描くのは自由です。しかし、その思いが思い通りに成るためには、やはり「思い」に等しい「心の理」が必要になります。
「億万長者」を思い描きながら「日々怠惰な生活」を送る・・・極端な例ですが、このように「思い」と「心の理」が乖離すれば、思い通りとは成らず、心通りの人生を歩むことになるのです。
これまで三つの理を知らずに生活してきた私たち。
三つの理を知らない私たちの意識の中に、有形が思い通りに成ると信じる人間心が根深く残っているのです。
三つの理は人間心を取り払い魂を取り戻す
もし何か問題に遭遇して、心配したり、不足心したりと、心がざわつくなら、それは人間心で対処しているのです。
そんな時は、直ぐに三つの理に立ち返れば、人間心は取り払われ魂を取り戻すことができるのです。
三つの理が心に治まると同時に人間心は静まり、魂人間として問題に対処して喜びの方角へ軌道を修正することができるのです。
今、見る問題が、過去に運んだ心通りの守護の結果なら・・・と、魂人間として心通りに守護を喜ぶことで、今、この瞬間に運ぶ心から未来の運命を変えることができるのです。
まとめ
もし何か問題に遭遇して、心配したり、不足心したりと、心がざわつくなら、それは人間心。
その時、人間心を認識できれば問題は解決したも同然。
三つの理で、心配したり不足する人間心を安心し満足する喜びの心へと立て替えれば、どんな問題も速やかに治まるのです。
喜びの有形を実らせるのは喜びの種。
心に喜びの種を持つのが魂人間なのです。
宗教と盲信と魂人間
先日、長女が学校の先生から聞いてきた話を長男に聞かせていた。
「〇〇教で、男性から顔を見られた女性が、家族から顔に硫酸を浴びせられた。」
誰が聞いても酷い話である。
その宗教に関わり合いの無い一般人から見たら、初めから最後まで意味不明である。
しかし、例え他人から異様に見えることでも、それを信じている者にとっては絶対正義であり、命懸けで守らなければならない教義なのです。
長女の話を側で聞いていた私は思わず「信じられない宗教だよね。全く酷い話だ。」と、〇〇教に対して批判的なスタンスで二人の会話に参加しました。
当然、二人の同意を得られると思っていたら、長男の反応は違っていました。
「信じている人がいるのだから、そんなことを言っては駄目だよ。」
わたしは想定外の反応に思わずムキになって反論しました。
「ならば〇〇(長男)、いくら信じているからと言って顔に硫酸をかけたり、オーム真理教のようにサリンで無差別殺人を行うことがことが正しいのか?これは盲信と言うのだよ。自分の頭で考えれば簡単に解ることでも、教義を盲信すれば殺人も平気で行えるのだ。」
そこまで言うと、長男は納得のいかない顔で部屋を出て行きました。
「えっ?そう思うよね?」と、長女に尋ねたところ、「まあ、微妙なお年頃だし、色々あるんじゃない?」と意味深な返事。
少し心配になって長男の部屋を覗いたら、ベットに伏せて泣いていた。
「どうしたの?学校で何かあったの?」
首を横に振る長男。
何か理由はあるにせよ、私の発言が引き金になったのは間違いありません。
そこで、私は三つの理に立ち返り、自分の発言を振り返ってみました。
三つの理に立ち返り、魂の視点から自分を振り返ったところ、そこに映っているのは自分の意見に盲信する私自身でした。
教義に盲信の末に硫酸を浴びせる者と、自分の意見に盲信する私。
〇〇教以外、誰が聞いても前者は酷い話、後者は正論なのは間違いありません。
どんな信念があろうが愛する家族に対して虐待を行うことが正当化されるべきではありません。
教義の盲信が、愛する家族さえも憎悪の対象へと変えてしまう。
教義的には正しいのかもしれないが、それで果たして幸せなのだろうか?
家族に硫酸を浴びせて、それで喜べるのだろうか?
その後の人生、幸せに暮らせるのだろうか?
人を不幸に陥れて、それで死後の幸せが約束されるのだろうか?
こうして文章を書いているだけで、怒りや悲しみの感情が湧き出てくる。
怒りや悲しみ・・・負の感情。
喜び以外の感情。
そうなのだ。
他者に対して批判を向ける時、必ず喜びの心は息を潜める。本人は正しい・正論と信じて疑わない心の内は負の感情に支配されている。それは他者の意見、立場、心情を理解しない排他的な心。排他的な心が衝突し合えば争いが生じる。お互いに理解できず主張を押し通すだけなら、後は暴力・武力の行使しか残されていない。
私の発言に負の感情を見た長男は悲しくなり涙したのだ。
普段から三つの理を説き、喜びの意味を教えている父の心に喜び以外の感情が見えた上に、父が自身の負の感情を正論という形で正当化したのでは、長男のやるせない気持ちは如何ばかりか?言行不一致とは正にこのこと。
私は深く反省し、長男に謝罪し、ことの顛末を家族に話しました。
神の思想、三つの理は、魂を守り心の自由を保障するもの。
人間の心は自由。
その自由は神様が定めた三つの理により完全に保証されている。
何を信じるのも自由。どんな宗教、教義を信じるのも自由。
自由だが、自分が使った心は「心通り」に有形となって守護いただく定め。
家族に硫酸を浴びせ、浴びせられた双方の心に喜びがあるなら、その心通りに喜びの有形を守護いただくだろう・・・もし、本当に喜びがあるのなら・・・。
三つの理が支配する世界に於いて、喜びが続くことが善であり、それ以外は悪として払われるのです。
続かない喜びとは自分だけの喜び。他者を差し置いて、他者を不幸にして、自分だけが得をし、自分だけの身を守ること。我が身可愛い我が身思案の喜び。
自分だけの喜びは続かない。何故なら未来永劫続く喜びとは「人間の喜びを見て共に楽しむこと」にあるからです。
それは我が身思案を超えた他人思案。
何故、我が身を案じる必要がないのか?何故、他人の喜びだけを楽しみに生きられるのか?
三つの理が解れば、その答えも解ります。
我が身は神様が守っている。だから我が身思案が必要ない。全ての有形を神様からお借りし、人間は心を使うだけで心通りの喜びを与えていただくことができる存在。神様を知らず、三つの理を知らない人間の心が、余計な心配や喜べない心の種を生み出し続けているに過ぎないのです。
人間の心は種となって神様にお受け取りいただき、心通りの守護を実らせる。心配や喜べない有形が見えたとしても、それは過去に蒔いた人間の心の種が実った結果。その実を喜びの心で収穫すれば、次に種は自動的に喜びの種となる。喜べない心の種を蒔かなければ、世の中から喜べない有形は必然的に姿を消すのです。
そして、ここに一つ秘密があります。
神様は喜びの心を真っ先に受け取るのです。
喜べない種が蒔かれていても、喜べない種の実りは遅い。しかし喜びの種は蒔かれたら直ぐに実る。喜べない種を差し置いて真っ先に実るのです。
なんて有り難い神様の計らいでしょうか?
どんなに喜べない種が蒔かれていても、喜びの種を蒔き続ければ、喜べない有形が実ることは無いのです。
即ち、自分の心に確かな喜び(三つの理)があれば、未来永劫何も心配する必要はないのです。
神の思想、三つの理に盲信しても意味はない。
しっかりと自分の魂で思考し、感じ、答えを出さなければ1ミリも理は動きません。
心に本当の喜びが無ければ理は微動だにしないのです。
盲信に心の自由はありません。盲信は自分で思考することを止め、自由の心を自ら放棄しているのです。教祖や他人の言に盲信する心無いロボットを創造することが、神の望みではありません。
神の思想は人間の喜びが未来永劫続くこと。喜びづくめの魂人間を創造し共に楽しむこと。
三つの理で心自由を発揮し、その喜びから心通りの守護を楽しむ魂人間の創造。
今も創造され続けている人間。
今回の件からもお分かり頂けたように、私自身も魂人間の卵に過ぎません。ふとした時に人間心の癖が顔だし、魂を覆い隠してしまいます。
私たちが考えている以上に心の中身は混沌とし、整理されていません。
三つの理を聞いても、この混沌とし未整理な心の中に雑然と放り込まれ、闇鍋のように様々な具材とごちゃ混ぜになり、常時使える心の理として確立していないのです。
こうして文章で心の中身を表わすことは、混沌とした思考を整理するためには最も有効な手段です。心の中身を文章で表わし形にすることで思考が固定され、混ざり物のない純粋な思考を確認することができるからです。
もし〇〇教の教理が人々を幸せにし続けるなら未来永劫栄え、世界のスタンダードな宗教となるでしょう。
結局、どんな信念があったとしても心通りの守護が支配する世界。
本当に喜びの種を蒔いている者が未来永劫栄え、世界のスタンダードとして定まるのです。