寿限無の日記

魂人間の寿限無が綴る魂のブログ

無形が創造する有形世界

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ちょっと難しいタイトルになってしまいましたが、今回は無形と有形について考えてみようと思います。

 

 

有形とはなにか?

私たちは有形の世界に住んでいます。

有形とは姿形があり、色があり、香りもあり、見たり、聞いたり、触れることができます。

有形には限りがあります。

動植物は永遠に存在し続けることはできません。必ず存在が朽ち果て土に返る時が訪れます。

食品にも賞味期限があります。限界を超えると腐って食べられません。

高価な住宅や車、家電製品なども、やがて劣化し、故障し、朽ち果てます。

人間にも必ず死が訪れます。

有形は限界だらけです。

 

しかし、その一方で有形は誕生し続けます。

 

動植物は絶えず誕生し続けます。

食品、製品も絶えず誕生し続けます。

人間も有史以来、誕生しなかったことはありません。

 

これら有形の存在は何処から誕生するのでしょうか?

 

勿論、動物は親の体内から誕生し、植物は種から誕生します。

食品、製品は加工材料やアイデアから誕生します。

人間も父の精子を母の卵子が受精して誕生します。

 

では動物の親はどこから誕生したのでしょうか?植物の種は?加工材料やアイデアは?精子卵子は?一体何処から誕生したのでしょうか?

 

有形の誕生を紐解いていくと、宇宙誕生の歴史まで遡ります。

高名な学者は宇宙はビックバンが元で誕生した・・・と説明しますが、ビックバンが物理現象である以上、ビックバン以前にも物理があると考えるのが当然です。

 

例えば「、人間を創造したのは神である」と言われたら、「ならば神を創造したのは誰だ?」と疑問が湧いくるのです。神様を有形として考えている限り、この疑問が解決することはありません。

有形が誕生する元を有形と考えている限り、タマネギの皮のように剥いても剥いても皮が現われてくるのです。

 

それでは有形は何処から誕生するのでしょうか?

先ほどタマネギの皮を例に挙げましたが、タマネギの皮を最後まで剥いたらどうなります?当然、何も無くなりますよね?無になってしまいます。

これを逆に再生すると、から最初のタマネギの皮一枚が現われます

実はこれが有形が誕生する瞬間なのです。

それは、0(無形)から1(有形)が誕生する不思議な瞬間・・・。

有形が誕生する大元は無形にあるのです。

 

それでは無形とは一体なんなのでしょうか?

 

無形の正体

無形の正体、それは人間創造の神様です。

神様と聞くと、どうしても姿ある神様を想像してしまいます。

「白い髭を蓄え、杖も持ち、後光が差している。」

神様を形でイメージすると、途端に胡散臭くなります。

神様が形なら、その形ある神様を創造したのは、誰なの?またタマネギの皮論争に逆戻りです。

 そもそも私たちが抱く神様のイメージは余りにも貧困で汚れすぎています。

「神様ってナニ?」と100人に質問したら、それぞれ多種多様な考え・イメージで答えると思います。 

 

  • 「神様は白い髭と杖を持ったおじいさん」
  • 「100万円の壺を買えば神の御加護があります」
  • 「神の名の下に宗教戦争
  • 「このパンケーキ美味い!マジ神!!」

 

 もう何が何だか解りません。
神様って良い存在?悪い存在?
年も取り、お金が大好きで、争いを好み、パンケーキに宿る?
それじゃ人間と大差ありません。
その上、運命を操り天罰まで下するなら恐怖の対象でしかありません。私たちは常に神様のご機嫌を伺いながら、ビクビクと震えて暮らすしかないのでしょうか?。

 

もし神様が存在するなら、正しく公平で、人間を難儀苦悩から遠ざけ、喜びを与え続ける存在であって欲しいものです。

病気より健康、貧困より富裕、不作より豊作、戦争より平和、死より生・・・人間が望むもの全てを公平に与えてくれる存在でなければ、わたしは神様と認めたくありません。こんな素晴らし存在なら、誰でも神様、神様と恋慕う筈です。

だって、人間の力で実現不可能な願いを叶える存在なら、それは神様と呼ぶに相応しいと思います。

そんな理想的な世界に成っていない現実こそ、理想的な神様が存在しない確かな証拠・・・と思われても仕方がありませんが、それは単に、これまで抱いてきた神概念が真実と乖離していたに過ぎないのです。

 

神様は無形

神様は無形なのです。

無形とは姿価値が無く、物質、時間、空間に縛られない完全に自由な存在

 「観測可能な宇宙の半径は137億光年~」と推察されていますが、それほど巨大な宇宙をも包含し、どの時間帯、どの空間にも存在する不思議な存在なのです。

そう無形は不思議なのです。

人間には到底思議不可能な存在なのです。例え説明されても理解不能な不思議の領域なのです。

でも、わたしたち人間が接する不思議は脅威でも恐怖の対象でも無いのです。

何故なら、不思議は全て人間の喜びのために存在するからです。

そう、不思議な存在である神様は、常に人間の喜びを考え、全知全能の力を人間の喜びのためだけにお使いくださるのです。

これ以上、無形の意味は必要ありませんよね?

 

またコンピューターで例えますが、計算したり、文章を書いたり、絵を描き写真を加工したり、ゲームをしたり・・・様々な喜びをコンピューターから体験できますが、コンピューターの構造や仕組みを知っている人はどれ位いるでしょうか?殆どの人がコンピューターを意識しないで様々な喜びを享受しているのです。でもコンピューターの有り難みは感じられます。

神様も同じです。

無形の神秘が解明されなくても、神様の守護に喜びを感じられれば、それ以上の意味は必要ないのです。

 

でも、ここで一つ問題が発生します。

神様の守護を感じると言うことは、無形を感じると言うことです。

要するに、無形の神様が有形を創造し守護している実感がなければ、神様の守護と認識して喜ぶことはできません。

口先では、いくらでも「神様の守護を喜んでいる。」と言えますが、実際に神様の守護を感じるには無形を感じる能力が必要になるのです。

先ほども説明したように、無形は姿形が無く、見ることも、触れることもできません。

それでは無形を感じるには、如何なる能力が必要になるのでしょうか?

無形を感じる能力

それこそ魂の能力なのです。

魂はそもそも無形です。

そして三つの理とは、無形と無形がつながり有形を形成しているのです。

 

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

無形を感じ、神様の守護を感じる方法

無形の心無形の神様が受け取り有形の守護となる。

人間の日常的な行為全てがこの原理に当てはまるのです。

  • コップに水を汲んで飲む。
  • 歯を磨く。
  • 服を着替える。
  • 掃除洗濯をする。
  • ゲーム、勉強をする。

 この日々の当たり前に出来ている行動の中で、無形を感じる魂の力を鍛え、神様の守護を感じる練習を繰り返えましょう。

物事に接する時、何か行動に移す時、常に三つの理を意識しながら心を使いましょう

 日々、三つの理を通して自分を見つめ、世界を眺めることで、少しずつ魂の感受性が開眼します。

しかしながら、日々の当たり前に出来ている行動から、無形を感じ神様の守護を感じるのは中々難しいものです。今までも習慣的に出来ていたことなので、中々不思議を感じずらいのです。

そこで一番の方法は、今までなら喜べない困難の最中(病気や様々なトラブルなど)に、三つの理を信じて喜びを運び、その心通りの喜びの守護をいただくことです。

 

例えば頭痛や歯痛、発熱が治まる、様々なトラブルが難なく解決する・・・など、普通では有り得ない不思議が現われたら、”無形”が創造する”有形世界”をハッキリと目の当たりにできるのです。

 

まとめ

人間の世界は、無形の心を神様が受け取り有形を守護する不思議な世界。

無形と無形がつながり有形を形成する不思議は自分の魂の力で感じられる。

その魂の力、無形を感じる魂の感受性は、三つの理心の理として日々有形無形と向き合う生活の中で身に付くのです。

 

 

 

永遠を生きる魂人間

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魂は永遠です。

 

人間の生とは有形をお借りすること。

人間の死とは有形をお返しすること。 

 

人間の死を神様は「出直し」と言われます。神様から生まれた瞬間から今に至るまで、魂は同一で何世代も生まれ変わり出直しを繰り返しているのです。

 

魂は永遠に生きるのです。

 

前世(過去)、今世(現在)、来世(未来)を生きる魂

今世を生きる人間に前世の記憶はありませんが、魂にはしっかりと記憶されています。今世で運んだ心の理は来世へ必ず持ち越されます。今世の姿は前世に運んだ心の理の姿。

お金持ちの家に生まれた人間は、前世で他人のために沢山喜びを与えたのかもしれないし、貧しい家庭に生まれた人間は、前世で私欲のまま生きたのかもしれません。まあ、因縁とはそんな単純なものではありませんが、前世で運んだ心の理が今世に影響を及ぼすのは間違いありません。

しかし、例えお金持ちの家、貧しい家庭に生まれても条件は全く平等なのです。お金持ちの家の方が沢山の物理的チャンスに恵まれているのは確かですが、この世は心通りの守護が支配する世界です。 

肝心なのは心の理です。

物理的豊かさが豊かな心を育むわけではありません。

心にどんな理を宿すか?

心に宿す理によって、今を含めた未来の喜びが確定するのです。

お金持ちでも欲と高慢にまみれた貧しい心なら果して「喜び」と言えるのでしょうか?その心通りに貧しい未来は火を見るより明らかです。

逆に貧しくとも他人に優しく思いやりに溢れた豊かな心なら「喜び」は今の現実であり、その心通りに「未来の喜び」も確定した今の現実となるのです。

   

前世、来世を見通す魂の力

人間には前世、来世は解りません。

人間は今世どころか「今」しか見えないのです。前世、来世が魂に記憶されていたとしても、今世への関わりなど知りようがありません。

 

それでは魂人間には前世、来世の姿見えるのでしょうか?

魂人間には前世、来世を見通せる不思議な能力があるのでしょうか?

いえ、残念ながら魂人間にも前世、来世を見ることはできません。

しかし見えなくても何も問題がないのです。

寧ろ、前世、来世が見える必要はないのです。

もし前世が極悪犯罪人だとしたら、人はその重みに耐えられるでしょうか?

きっと今世も後悔しながら喜べない生涯を送ることになるでしょう。

だから神様は敢えて前世を見せないのです。

前世は今世に映してありまります。

今世の姿を見て前世を悟るしか方法はありません。

しかし無理に悟る必要もありません。

心通りの守護と悟るだけで十分なのです。

そして心通りの守護と喜んで通れば、過去の因縁は綺麗に解けるのです。

肝心なのは今なのです。

この先、いつか必ず喜べる未来がある・・・のではなく、今、喜べることが最重要課題ではないでしょうか?

 

来世が見ないのも今世の楽しみを守るためなのです。

来世は今の心の理次第で不確定。

未来は神様にも解りません。

だからこそ楽しみがあるのです。

そして未来が見えなくても、今に神の思想を信じる喜びがあれば、未来は必ず喜びに確定するのです。

  

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

魂人間にとっては、今が 過去であり、今が未来なのです。

それが魂人間の信じる理、神様の思想を支える三つの理なのです。

 

tamashi-ningen.hatenablog.com

  

 まとめ

人間は身近いスパンでしか物事を計れません。目先に捕らわれるのは愚者の所業と誹る側も、せいぜい今世の間でしか物事を計れません。

しかし魂は、前世、今世、来世の世代を超えたスパンで物事を計ります。

神様と同じ視点、魂の視点に立って過去、現在、未来を見通す魂人間。

魂人間は、前世(過去)、今世(現在)、来世(未来)を一点の曇りない喜びで生きるのです。

 

 

 

魂とはなにか?

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誰でも知っている言葉ですが「魂とはなにか?」、この問いに答えることは大変難しいと思います。

Googleで検索するとだいたい以下のような回答が得られます。

たましい 【魂・霊】

  1. 身体に宿って心の働きをつかさどるとされるもの。古来、肉体から独立したものと考えられた。 
  2. 精神。気力。

 

まあ、要するに実体のない抽象概念的なものでしょうか?

実体が無ければ見ることも触れることもできません。

魂とはなにか?の問いに答えられないのは当然と言えば当然です。

だって見ることも触れることも出来ないのだから・・・。

 

しかし魂人間として使われているには、明確な意味があります。

は人間なら誰でも持っているもの。

いや、持っているというより、むしろ魂が人間の本体なのです。

 

 

魂は人間の本体

大抵の人は、心と体を人間と認識していると思います。

自分の顔、自分の体、自分の心・・・。

しかし三つの理に従えば、体は神様からの借りものであり、人間の本体ではありません。

それでは心だけが人間なのでしょうか?

これも三つの理に従えば、「心一つが人間のもの」ですが、心は人間が自由に使えるものであり、人間の本体ではありません。

人間が神様から体を借り自分の心を使う

神様から体を借りている人間、それが魂であり、人間の本体は魂なのです。

 
tamashi-ningen.hatenablog.com

 

それでは、そもそも魂は何処から生まれてきたのでしょうか?

 

魂の親

人間は人間の親から生まれてきます。

サルはサルの親から生まれてきます。

それでは魂の親は

魂の親は、この人間世界を創造された神様に他ならない。

神様から生み出されたのが人間の魂

神様と人間は親子関係で結ばれており、神様のことを親神様と呼ぶこともあります。

人間の魂は神様から生まれたゆえに、神様と魂は同じ性質を持っています。

 

魂は無形

 神様が無形であるのと同様に、魂もまた無形なのです。

無形である魂は、姿形が無く、物質、時間、空間に縛られない完全に自由な存在

神様と同じですね。

実際に魂が使う心は、物質、時間、空間に縛られず自由に思いを巡らすことが可能です。

そして魂が借りているものの巨大さから鑑みても、魂が自由自在に大きさを変えられることが窺えます。

 

魂が借りているもの

魂は神様からなにを借りていますか?

体ですか?

体だけ借りて、それで十分ですか?

いや体を保つために、衣食住も借りなければなりません。

水や火や空気も借りなければなりません。

それどころか地球も借りなければならないし、月や太陽も一緒に借りなければなりません。

いやいや太陽系、銀河系、膨張し続ける大宇宙も借りなければなりません。

 

どうです?

魂の大きさが理解できましたか?

膨張し続ける宇宙に合わせて自由自在に大きさを変えられるのです。

魂が無形だからこそ有形世界を丸ごと借りることが可能なのです。

 

しかし借りているからといって、魂が自由に使えるわけではありません。

何故なら体(有形)は思い通りに動くのではなく、心通りに動くのです。

心通りの守護とは神様の力です。

人間はたった心一つ使うだけで、有形を動かす難しい働きは全て神様が担ってくださるのです。

ロボットで考えた場合、「コップで水を飲む」たったこれだけの動作に、どれだけの時間と労力が注がれているのか?容易に推察できるでしょう。コップが割れないように絶妙な圧力を加え、口(くち)とコップの軌道がズレないように調節し、水かこぼれないように計算しながら漸く「水を飲む」行動を実現できるのです。それでも人間のように自然で滑らかな動作では無く、不自然でいかにもロボット的な動きです。

しかし人間は圧力、軌道、計算など、ほとんど意識することがなく水を飲むことができるのです。他のことを考え、上の空でも当たり前のように「コップで水を飲む」ことができるのです。この「コップで水を飲む」動作一つとってみても、神様が側に付き添うが如く有り難い守護をいただいているのです。 

もし今、「コップで水を飲む」動作に神様の守護を感じ、喜びを感じたなら、それが魂の働きなのです。 

 

まとめ

神様の守護は魂だけが感じられるもの。

人間は神様の守護を感じていると同時に、自分自身の魂を感じているのです。

要するに、神様の守護を感じて喜んでいる状態が魂なのです。

魂は見ることも触れることもできませんが、感じることはできるのです。

 

 

神の思想を支える三つの理

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神の思想は「人間の喜びを見て共に楽しむこと」。

このたった一つの考えから人間世界は創造されました。 しかし途方も無い長い年月を掛けた壮大なプロジェクトです。当然、緻密かつ確実な方法が必要になります。

そこで神様は三つの理を定めました。 

 

 

三つの理

この三つの理によって人間は存立しているのです。

三つの理は神様でさえ無効にすることができない絶対の理。否、永遠に変える必要がない完成された理なのです。

 

①借りものの理

  • 全ての有形は魂が神様からお借りしているもの。
  • 体、衣食住、地球、太陽、宇宙・・・全ての有形は神の創造物。
  • 有形に対して人間は完全に不自由。借りているからと言って自由に使えるわけではない。神様の許しが無ければ呼吸一つ不可能。  

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

②心通りの理

  • 心通りの守護。人間の心を神様が受け取り有形を守護する。
  • 心通りの守護が無ければ全ての有形は微動だにしない。
  • 心通りの守護こそ人間にとって最大の喜び。    

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

③心自由の理

  • 心一つが人間のもの。人間の心はいつでも自由。
  • 心の自由は神様にさえ邪魔できない完全なる自由。
  • 人間の心が運命を創造する。    

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

三つの理が支配する世界

全ての人間は、三つの理が支配する世界に生きているのです。

誰一人として三つの理の影響下から逃れることはできません。

しかし逃げる必要は全くありません。なぜなら三つに理が人間を存立させる根本原理であり、「喜び」を成り立たせるの土台だからです。

喜びと同様に、嫌なこと、都合の悪いこと、喜べないことも三つの理が原因です。

しかし三つの理が持つ本来の目的は「人間の喜び」のためにあるのです。

今まで人類は三つの理を知らずに生きて来ました。

自分に都合が悪いことが起これば、その形を排除したいと思うのは当然のことです。

だから今までは、病気に掛かれば幹部を排除し、犯罪が起これば犯罪者を排除し、領土を守るために他国を排除し、環境が汚染されれば汚染物を排除し、我が身の幸せを守るために他人を排除して来たのです。

これらの判断は当然と言えば当然です。異論を唱える人は少ないと思います。

しかし、全ての物事は三つの理から守護いただいた結果なのです。

これまでは結果に対して心を使うしか術はありませんでした。

これまで人間の知恵や知識で問題に対処して来ましたが、病気も犯罪も争いも一向に無くなりません。寧ろ更に難しい問題が次から次へと発生します。

どんなに問題を排除したところで、問題とは「心通りの守護」の結果に過ぎません。

問題が起こる原因を絶たなければ、次から次へと問題が発生するのは当然です。

浸水したボートの水を一生懸命掻き出しても、原因の穴を塞がなければ浸水が止まることは有り得ないのです。

全ての物事は三つの理から守護いただいた結果であれば、当然、全ての物事の原因も三つの理にあるのです。

 

三つの理は、解りやすく説明すればコンピューターみたいなものです。

命令を入力すればコンピューターは命令通りに動きます。

悪い命令ばかり入力していたら、コンピューターは命令通りに悪い結果を出します。

三つの理もコンピューター同様に、喜べない心ばかり使っていたら、その心通りに喜べない守護しかいただけないのです。

つまり心を使う(命令を入力)ことが物事の原因なのです。

心を使う段階で喜びの心のみ使えば、その心通りに喜びの守護が溢れるのが当然の結果なのです。

これまでは三つの理を知らず、物事の原因が分からず、結果に翻弄され続けるばかりでしたが、知った今は物事の原因に参入し、問題の原因を根こそぎ排除し、問題を発生を未然に防ぐことが可能なのです。

 

つまり三つの理とは、人間の心一つで運命を決められる有り難い有り難い仕組みなのです。

これまでは神社宗教などで、神様に願いを叶えていただくためにお賽銭を投げたり、拝んできたかも知れませんが、三つの理を知った今、その方法論が大変革するのです。

人間には、喜びに必要な全ての理が備わっているのです。人間は何処からでも、どんな状況からでも喜びの心を生み出せるのです、

神様は人間に知恵を仕込み、文字を仕込み、漸く三つの理を仕込める段階まで到達したのです。そして遂に神の思想通りの人間が誕生するのです。

 

三つの理を駆使し、魂で感じ、魂で考え、魂で喜ぶ、魂人間の誕生。

三つの理を人間自身の心の理とするなら、誰でも喜びの化身、魂人間になれるのです。

 

以下、参考までに簡単なQ&Aを記載しておきます。

より詳しい解説は個別の記事をご覧ください。

  

三つの理 : Q&A

Q1
何故、心臓は独りでに鼓動するのか?
A1
独りでに鼓動しているわけではありません。神様が鼓動させているのです。
複雑で難しい体の働きは全て神様が担い、人間自ら管理する必要のない重宝な体をお借りしているのです。有り難いことですね。
Q2
自分の力で努力してダンスが上達しましたが?
A2
人間は心を使うだけです。
神様の力が無ければ指先一つ動きません。
ダンスが上達したのは心通りに守護いただいたお陰です。
ダンスに向き合い、喜び運んだ心の理は、必ず神様が受け取り、形(結果)となって御守護いただけるのです。何事も喜びが心を進ませ結果に結びつくのです。
Q3
嫌なことがあると落ち込んでしまいます。
A3
心は完全に自由です。
嫌なことを見て「落ち込む心」を選択をしているは自分自身です。
嫌なこと(形)に捕らわれて、本来自由である心が身動きできないのです。
そんな時、三つの理に自分の心を当て嵌めれば、問題は簡単に解決します。
嫌なことも心通りの守護なら、嫌なことを見て「落ち込む心」も心通りに守護いただくのです。
嫌なことを見る原因は過去の心使いにあるのです。
自分の心使いの結果である嫌なことを見て「落ち込む心」を使うということは、過去の自分に学ばず同じ過ちを繰り返し、更に落ち込む原因を創造しているに過ぎないのです。このままでは「落ち込む心」のスパイラルから抜け出すことはできません。
「落ち込む心」の悪循環を断ち切り、喜べない過去・現在を断ち切り、喜びの現在・未来を創造する主体性は人間に備わっているのです。
それが三つの理。
三つの理は「落ち込む心」を使う必要のない「喜びの理」なのです。

 

まとめ

  三つの理とは「人間の喜びを見て共に楽しみたい。」という神様のアイデアを形にするために必要不可欠な三大原理なのです。

この三つの理を自分に当て嵌め、三つの理を使い喜びづくめの人生を歩むのが魂に目覚めた人間・・・即ち魂人間なのです。

 

 

 

神の思想とはなにか?

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神の思想

つまり神様の考えです。

神様は如何なる思想の元に人間を創造されたのでしょうか?

 その前に、そもそも神様とは如何なる存在なのでしょうか?

  

 

神様とはなにか?

神様とは無形の存在。

無形とは姿形が無く、物質、時間、空間に縛られない完全に自由な存在

そして全知全能の存在であります。

全知全能ゆえに神様に不可能なことはありません。

どんな思考も可能だし、その思考を有形として自由自在に創造することも可能です。

しかし神様には全知全能ゆえの葛藤がありました。

全知全能ゆえ、我が身の心配も苦労も一切無い代わりに何の楽しみもありません。

神様はこの状態を「どろ海」と称されています。

 

全知全能ゆえの葛藤

わたしたち人間は有形の存在です。

有形とは、姿形が有り、物質、時間、空間に縛られた完全に不自由な存在です。

神様のように何でも出来たら、どんなに楽しいだろう?と思わずにはいられませんが、実際に何でも出来てしまったら、自分自身にとっての楽しみは消滅してしまうのです。

そんな馬鹿な?と思われるかも知れませんが、少し考えてみてください。

例えば、こんな欲求があったとします。

 

  • 高価なフルコースの料理を心ゆくまで堪能したい。
  • 豪華客船で世界中をのんびりと旅したい。
  • 高級車に乗り豪邸に住み何不自由なく暮らしたい。
  • 才能豊かで世界中から賞賛を浴びたい。

 

誰もが夢見る素晴らしい生活ですが、もし全ての欲求を実現できる能力があるとしたら?

いつでも豪華なフルコースを堪能し、いつまでも豪華客船で旅をし、何万台もの高級車、何万件もの豪邸を好きなだけ所有し、ノーベル賞、世界記録など簡単に成し遂げられるとしたら?

つまり神様のように何でも自由自在に出来る存在だとしたら?

自分自身に対する欲求は消え去り、恐らく神様と同じく退屈な日々を余儀なくされるでしょう。

人間は不自由だからこそ様々な欲求に溢れています。

欲求に溢れた人間には、神様の立場がピンと来ないかも知れません。

人間は決して神様のようには成れません。

神様のように全知全能、自由自在ではありません。

しかし人間は物質、時間、空間に縛られ不自由であるからこそ、自由を求め、自由の喜びを感じることが出来るのです。

 

  • 家計を気にしながら毎食準備するからこそ、豪華なフルコース
  • 毎日の雑務、仕事、人間関係の疎ましさがあればこそ、気儘な旅
  • 一生に一度の高価な買い物だからこそ、高級車や豪邸
  • 平凡な自分、無価値な自分だからこそ、才能と賞賛

 

その欲求の根底にあるのは紛れもなく、自由への渇望なのです。

不自由であるからこそ、自由を渇望し、自由の喜びを感じることが出来るのです。 

 

全知全能ゆえの葛藤から、神様にも自由にならない他者の創造・・・

つまり人間創造を思いつかれたのです。

  

 神様のアイデア

「どろ海」以前、何の楽しみも無い神様に素晴らしいアイデアが閃いたのです。

それが人間創造です。

 

人間を創造した時、はじめて神様に不自由が発生したのです。

完全に自由の心を持つ他者である人間。

神様にも自由にならない人間だからこそ、

神様の思い通りに人間が喜んだ時、神様は自由の喜びを感じられるのです。

  

全知全能ゆえ、我が身に対する心配や苦労は無い代わりに、欲求や喜びも無かった神という存在。

他者である人間が誕生することによって、

他者の喜びを我が喜びとする心が発生したのです。

人間の身を案じ、人間を守護し、人間の喜ぶ姿を楽しむという明確な意志を持った神。

 

人間の喜びを見て共に楽しむ」という素晴らしいアイデア

これが全知全能が導き出した至高の喜びなのです。

  

 まとめ

神の思想とは「人間の喜びを見て共に楽しむこと」。このたった一つの思想から人間世界の創造が始まったのです。

人間創造とは喜ぶ人間を創造すること。

喜ぶ人間。その喜びは神様の守護を感じる魂の喜びです。

魂で感じ、魂で考え、魂で喜ぶ、魂人間の創造が神様の目的なのです。

 

 

 

人間とはなにか?

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人間とはなにか?

誰もが一度は考えたことのある疑問だと思います。

それは同時に「自分とはなにか?」の問いでもあります。

インターネットで「人間とは?」と検索すれば、古来から人類が挑んで来た永遠のテーマであることが解ります。

しかしながら「人間とは?」の答えを解き明かすために、いくら人間を研究したところで、恐らく・・・いや、絶対に明確な答えを得ることは不可能でしょう。

だかからこそ永遠のテーマなのですが・・・。

人間とはなにか?」の問いが超難題であることは、人類学を扱う専門的な研究者でなくとも容易に察することができるはずです。

 

 

人間とはなにか?この問いの難しさ

人間とはなにか?」の大きな枠組みで考えるより、先ず「自分とはなにか?」を考えてみましょう。

自分はなんのために生まれ、なにをするために生きるのか?

この問い掛けに明確な回答ができる人は皆無だと思います。

例え回答できたとしても、それは本人の思い込みに過ぎません。

何故なら全ての人間は自分の意志で生まれてくる訳ではないからです。

よく「自分のことは自分が一番良く知っている。」と耳にしますが、これも全くのデタラメです。

ただ自分の状況を推察して知ったつもりになっているに過ぎません。

果して自分は自分の何を知っていると言うのでしょうか?

自分とはなにか?

この命題に対して明確な答えを出せない時点で、自分は自分のことを丸っきり解っていないのです。

 

そして自分にとって、もう一つ肝心なもの。

身体です。

 

身体は自分?自分のもの?

自分の顔、自分の手、自分の足・・・・。

この身体は自分なのでしょうか?

身体を自分と言えるのでしょうか?

もし身体が自分のものと言える人は、一度でも身体の内部を見たことがあるのでしょうか?

 

  •  自分で心臓を動かしているのでしょうか?
  • 自分で体温を調節しているのでしょうか?
  • 自分で食物を消化し栄養を吸収しているのでしょうか?
  • 自分で身体を大きくしたり老いたりしているのでしょうか?  

 

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こうして改めて考えた時、

身体が自分のものと言える根拠を見つけるのは大変難しいと言わざるを得ません。

身体を保全し、命を繋ぐ作業は完全に他人任せなのです。

それなのに「自分の力で生きている。誰の世話にもなっていない。」と言えるでしょうか?

余りも自分を知らない滑稽な台詞に聞こえてしまいます。

 

  • 水を飲み食事をする。
  • 好きなところへ出掛ける。
  • 勉強や趣味に興じる。
  • 仕事に打ち込む・・・。 

 

tamashi-ningen.hatenablog.com

 

普段、当たり前の様に出来ている行動すらも、「出来ているから出来る」に過ぎないのです。

もし身体に問題が起これば、床から起き上がることすら出来ないのが「自分」なのです。

自分は自分のことを全く知らない。

これが自分を含めた人間の正しい認識で間違いありません。

 

人間には生と死がありますが、

この人生にとって最も肝心な瞬間に自分の意志は介在していないのです。

 

自分以外の意志により生を受ける

自分以外の意志により死を迎える

 

それなのに、

生を受けている間は自分の意志で生きるのです。

生を受けている間は喜び・幸せを求め続けるのです。

それは魂に組み込まれた目的意識ゆえ、抗うことも消し去ることも出来ません。

人間は自分以外の意志で創造され、自分の意志で生きる定めを背負った存在なのです。

一体、人間とはなんなのでしょうか?

  

まとめ

人間とはなにか?

この問いに明確な回答を出来る人間は絶対に存在しません。

存在するとすれば、人間の創造主である神のみです。

 

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魂人間とはなにか?

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はじめまして、魂人間寿限無です。

みなさん、魂人間ってご存じですか?

魂って言葉は誰でも知っていると思います。

人間って言葉も知らない人はいないと思います。

でも、この二つの言葉が合わさった魂人間は始めて耳にすると思います。

何故なら、この魂人間という言葉は人類にとって全く新しい概念だからです。

では、そもそも魂人間とは何なのでしょうか?

人間魂人間、一体何が違うのでしょうか?

姿形は違うのでしょうか?

人間には無い特殊な能力を身に付けているのでしょうか?

いえいえ、人間魂人間は見た目も同じで、特殊能力など一つもありません。

残念ながら、幽体離脱をして自由自在に空間を往来出来る分けでも無く、目からレーザービームを出せる分けでもありません。

それでは人間とは異なる魂人間の独自性とは一体何なのでしょうか?

人間魂人間の違いはただ一つ。

考え方の違いです。

もう少し詳しく述べれば、思考の土台となる思想の違いです。

ちょっと難しくなりましたが、要するに両親・学校の先生・成功者・道徳・宗教など・・・何を考え方の基準に据えているか?の違いです。

 

 

思考する人間

人は物事に対して様々な考えを巡らせます。

同じ物事を見ても、三者三様の考え方が存在します。

例えば、急な「発熱で体が怠い」時、あなたなら何を考えるでしょうか?

 

「何か恐ろしい病気かもしれない。直ぐ病院に駆け込もう。」

「生姜湯でも飲んで、ゆっくりと家で療養していよう。」

「これくらいの発熱など問題ない。動いていれば直ぐ治る。」

 

過去の私ならの中間的な考え方をしていました。

では、上記は何を考え方の基準にしているのでしょうか?

一つに「経験」です。

過去に発熱した経験により、今の状況から次の行動を思考しているのです。

の「生姜湯」なども、子供の頃に経験した祖母の知恵かもしれません。

「生姜湯」を飲んで症状が楽になった経験があれば、次も必ず「生姜湯」を飲もうと考えるでしょう。

経験は思考方法に絶大な影響を及ぼします。

 

次に「知識」です。

経験が無くても、知識を基準に考える場合もあります。

それが体系的で確立された知識であればあるほど、自身の経験より知識を考え方の基準として選択します。

もしかしたら、は「医学的知識」に照らし合わせて「病院」と考えたのかもしれません。

 

経験」を基準に考える。

知識」を基準に考える。

 

しかしながら、この二つの思考方法が、次の行動に確実な保障を与えることはありません。

人間は物事に遭遇した結果、今の状況を考えて、次の行動を選択します。

 それでは一体何の為に考えるのでしょうか?

勿論、今の状況より良い状況に改善するため。

それは今の心より喜べる心になるためと言えます。

人間は常に喜びを求めて思考しているのです。

それは何故かと言えば、それこそが魂の特性なのです。

 

魂の特性

どんなに心で否定しようが、魂は喜びを求めて止まず、その目的意識が消滅することは絶対に有り得ないのです。

何故ならば、魂は喜びを目的として神から生まれた存在であり、その目的意識が魂に組み込まれているからなのです。

 

故に魂ある限り喜びを求めない人間は、この世界に一人も存在しないのです。

人間がある限り喜びを目的として生き続けるのです。

そして魂人間とは、今まで内に隠れていた魂に目覚めた人間

物事に遭遇した時、今の状況を魂で考え、次の行動最善の結果に導き、必ず喜びに繋げることが出来る希有な存在・・・

それが魂人間なのです。

それでは魂人間の考え方とは?その基準とは?

 

魂人間の思考方法

魂人間神の思想を考え方の基準に据えています。

神の思想は喜び求めて止まない魂の目的意識を、完全な形で実現する道理を備えています。

経験・知識を基準にした考え方は、結果を見るまで「」か「」かの絶対的根拠はありません。

一生懸命考えた結果が、最悪の状況を招いたとしたら・・・悔やんでも後の祭り。

この考えなら絶対に間違いない!・・・と言える経験知識は、この世界、人間の思想世界には存在し得ないのです。

 

しかし。

ただ一つ。

絶対と言える思考方法が存在するのです。

それが神の思想なのです。

 

神の思想を基準に考えた結果は、必ず喜びに結びつくのです。

こんな素晴らしい神の思想がこの世に存在しているのです。

 

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まとめ

魂人間になるには自身の魂に目覚める必要があるのです。

そして魂に目覚めるには、神の思想に触れる以外に方法はありません。

何故なら神の思想こそがそのものなのです。

神の思想」=「」。

神の思想を考え方の基準に据える人間が魂人間

 

神の思想とは、

今の状況に対して必ず善の結果を導き出せる絶対的な喜び・幸せの思考方法なのです。

 

このブログにおいて、少しで神の思想に触れて頂き、一人でも魂人間として最善・最高の人生謳歌し、悲しみ、憎しみ、争いの絶えない酷い世の中を根本から改革したいと心から願っています。