寿限無の日記

魂人間の寿限無が綴る魂のブログ

宗教と盲信と魂人間

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先日、長女が学校の先生から聞いてきた話を長男に聞かせていた。

「〇〇教で、男性から顔を見られた女性が、家族から顔に硫酸を浴びせられた。」

誰が聞いても酷い話である。

その宗教に関わり合いの無い一般人から見たら、初めから最後まで意味不明である。

しかし、例え他人から異様に見えることでも、それを信じている者にとっては絶対正義であり、命懸けで守らなければならない教義なのです。

長女の話を側で聞いていた私は思わず「信じられない宗教だよね。全く酷い話だ。」と、〇〇教に対して批判的なスタンスで二人の会話に参加しました。

当然、二人の同意を得られると思っていたら、長男の反応は違っていました。

「信じている人がいるのだから、そんなことを言っては駄目だよ。」

わたしは想定外の反応に思わずムキになって反論しました。

「ならば〇〇(長男)、いくら信じているからと言って顔に硫酸をかけたり、オーム真理教のようにサリンで無差別殺人を行うことがことが正しいのか?これは盲信と言うのだよ。自分の頭で考えれば簡単に解ることでも、教義を盲信すれば殺人も平気で行えるのだ。」

そこまで言うと、長男は納得のいかない顔で部屋を出て行きました。

「えっ?そう思うよね?」と、長女に尋ねたところ、「まあ、微妙なお年頃だし、色々あるんじゃない?」と意味深な返事。

少し心配になって長男の部屋を覗いたら、ベットに伏せて泣いていた。

「どうしたの?学校で何かあったの?」

首を横に振る長男。

何か理由はあるにせよ、私の発言が引き金になったのは間違いありません。

そこで、私は三つの理に立ち返り、自分の発言を振り返ってみました。

三つの理に立ち返り、魂の視点から自分を振り返ったところ、そこに映っているのは自分の意見に盲信する私自身でした。

教義に盲信の末に硫酸を浴びせる者と、自分の意見に盲信する私。

〇〇教以外、誰が聞いても前者は酷い話、後者は正論なのは間違いありません。

どんな信念があろうが愛する家族に対して虐待を行うことが正当化されるべきではありません。

教義の盲信が、愛する家族さえも憎悪の対象へと変えてしまう。

教義的には正しいのかもしれないが、それで果たして幸せなのだろうか?

家族に硫酸を浴びせて、それで喜べるのだろうか?

その後の人生、幸せに暮らせるのだろうか?

人を不幸に陥れて、それで死後の幸せが約束されるのだろうか?

こうして文章を書いているだけで、怒りや悲しみの感情が湧き出てくる。

怒りや悲しみ・・・負の感情。

喜び以外の感情。

そうなのだ。

他者に対して批判を向ける時、必ず喜びの心は息を潜める。本人は正しい・正論と信じて疑わない心の内は負の感情に支配されている。それは他者の意見、立場、心情を理解しない排他的な心。排他的な心が衝突し合えば争いが生じる。お互いに理解できず主張を押し通すだけなら、後は暴力・武力の行使しか残されていない。

 

私の発言に負の感情を見た長男は悲しくなり涙したのだ。

 

普段から三つの理を説き、喜びの意味を教えている父の心に喜び以外の感情が見えた上に、父が自身の負の感情を正論という形で正当化したのでは、長男のやるせない気持ちは如何ばかりか?言行不一致とは正にこのこと。

私は深く反省し、長男に謝罪し、ことの顛末を家族に話しました。

 

神の思想、三つの理は、魂を守り心の自由を保障するもの。

人間の心は自由。

その自由は神様が定めた三つの理により完全に保証されている。

何を信じるのも自由。どんな宗教、教義を信じるのも自由。

自由だが、自分が使った心は「心通り」に有形となって守護いただく定め。

家族に硫酸を浴びせ、浴びせられた双方の心に喜びがあるなら、その心通りに喜びの有形を守護いただくだろう・・・もし、本当に喜びがあるのなら・・・。

三つの理が支配する世界に於いて、喜びが続くことが善であり、それ以外は悪として払われるのです。

続かない喜びとは自分だけの喜び。他者を差し置いて、他者を不幸にして、自分だけが得をし、自分だけの身を守ること。我が身可愛い我が身思案の喜び。

自分だけの喜びは続かない。何故なら未来永劫続く喜びとは「人間の喜びを見て共に楽しむこと」にあるからです。

それは我が身思案を超えた他人思案。

何故、我が身を案じる必要がないのか?何故、他人の喜びだけを楽しみに生きられるのか?

三つの理が解れば、その答えも解ります。

我が身は神様が守っている。だから我が身思案が必要ない。全ての有形を神様からお借りし、人間は心を使うだけで心通りの喜びを与えていただくことができる存在。神様を知らず、三つの理を知らない人間の心が、余計な心配や喜べない心の種を生み出し続けているに過ぎないのです。

人間の心は種となって神様にお受け取りいただき、心通りの守護を実らせる。心配や喜べない有形が見えたとしても、それは過去に蒔いた人間の心の種が実った結果。その実を喜びの心で収穫すれば、次に種は自動的に喜びの種となる。喜べない心の種を蒔かなければ、世の中から喜べない有形は必然的に姿を消すのです。

そして、ここに一つ秘密があります。

神様は喜びの心を真っ先に受け取るのです。

喜べない種が蒔かれていても、喜べない種の実りは遅い。しかし喜びの種は蒔かれたら直ぐに実る。喜べない種を差し置いて真っ先に実るのです。

なんて有り難い神様の計らいでしょうか?

どんなに喜べない種が蒔かれていても、喜びの種を蒔き続ければ、喜べない有形が実ることは無いのです。

即ち、自分の心に確かな喜び(三つの理)があれば、未来永劫何も心配する必要はないのです。

 

神の思想、三つの理に盲信しても意味はない。

しっかりと自分の魂で思考し、感じ、答えを出さなければ1ミリも理は動きません。

心に本当の喜びが無ければ理は微動だにしないのです。

 

盲信に心の自由はありません。盲信は自分で思考することを止め、自由の心を自ら放棄しているのです。教祖や他人の言に盲信する心無いロボットを創造することが、神の望みではありません。

 神の思想は人間の喜びが未来永劫続くこと。喜びづくめの魂人間を創造し共に楽しむこと。

三つの理で心自由を発揮し、その喜びから心通りの守護を楽しむ魂人間の創造。

今も創造され続けている人間。

今回の件からもお分かり頂けたように、私自身も魂人間の卵に過ぎません。ふとした時に人間心の癖が顔だし、魂を覆い隠してしまいます。

私たちが考えている以上に心の中身は混沌とし、整理されていません。

三つの理を聞いても、この混沌とし未整理な心の中に雑然と放り込まれ、闇鍋のように様々な具材とごちゃ混ぜになり、常時使える心の理として確立していないのです。

こうして文章で心の中身を表わすことは、混沌とした思考を整理するためには最も有効な手段です。心の中身を文章で表わし形にすることで思考が固定され、混ざり物のない純粋な思考を確認することができるからです。

 

もし〇〇教の教理が人々を幸せにし続けるなら未来永劫栄え、世界のスタンダードな宗教となるでしょう。

結局、どんな信念があったとしても心通りの守護が支配する世界。

本当に喜びの種を蒔いている者が未来永劫栄え、世界のスタンダードとして定まるのです。